東漢時代72 明帝(一) 劉彊 58年(1)

今回から東漢明帝の時代です。
 
顕宗孝明皇帝
光武帝の第四子で、母は陰皇后です。
元の名は劉陽といい、後に劉荘に改名しました。
 
以下、『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
明帝は顔が四角く(原文「豊下」。顎が豊かなこと)、十歳で『春秋』に通じることができたため、光武帝が奇異に思って大切に育てました。
光武帝建武十五年39年)に東海公に封じられ、十七年41年)に爵が王に進み、十九年43年)に皇太子に立てられました。
博士・桓栄に師事し、『尚書』を学んで精通しました。
中元二年58年)、三十歳で皇帝の位に即きました。
中元二年の出来事は既に書いたので省略します。
 
 
東漢明帝永平元年
戊午 58
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、明帝が公卿以下を率いて原陵を朝(朝見。参謁)し、光武帝が生きていた時と同じように朝会の儀礼を用いました。乗輿(皇帝)が神坐(牌位)を拝し、退いてから東廂に座ります。
侍衛の官は皆、神坐の後ろに座り、太官が食事を献上して、太常が音楽を奏でました。
その後、郡国の上計吏(郡国が派遣した一年の業績を報告する官吏)が順に前に進み、神軒光武帝の神坐が置かれた場所)に向かって郡内の穀物の価格や民が疾苦としていることを口頭で伝えます。
 
この儀式は正月の慣例になりました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏五月、太傅・高密侯鄧禹が死にました。諡号は元侯です。
資治通鑑』胡三省注によると、『諡法』には「義を行って民を喜ばせることを元という(行義説民曰元)」「義を重視して徳を行うことを元という(主義行徳曰元)」とあります。但し、鄧禹は中興の元功だったため、特別に「元」を諡号にしました。後世になって『諡法』に「徳が盛んで業績が大きいことを元という(茂徳丕績曰元)」という解釈が追加されます。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
東海王劉彊諡号は恭王)が病を患いました。
劉彊は明帝の異母兄(郭后の子)で、かつては光武帝の皇太子でした。
 
明帝は使者と太医を駅(駅車)で派遣して病を看させました。(使者や太医の)往来が絶えなくなります(駱駅不絶)
また、明帝は沛王劉輔、済南王劉康、淮陽王劉延にも詔を発し(三人とも劉彊の同母弟です)、魯(東海王国の都のようです)を訪ねて見舞いをさせました。
 
戊寅(二十二日)、劉彊が死にました。
劉彊は死に臨んで恩に謝す上書を行い、こう言いました「この身は既に夭命(短命)になり、孤弱(孤児。劉彊の子)もまた皇太后(陰后)と陛下の憂慮に為り、誠に悲痛し、慚愧しています(誠悲誠慙)。息政(息子の劉政)は小人(子供)で、とりあえず臣の後を襲う(継ぐ)立場にいますが(猥当襲臣後)(王位を継がせるのは)利を全うする方法ではありません(必非所以全利之也)。よって、東海郡を還すことを願います。今、天下は大憂に遭遇したばかりなので光武帝の死を指します)、陛下が皇太后への供養を加え(陛下が皇太后に更に孝行を行い)、頻繁に御餐(食事)を進めることを思います(願います)。臣彊は困劣(虚弱)で、言が意を尽くすことができないので、併せて諸王に謝すことを願います。今後会えなくなるとは思いませんでした(不意永不復相見也)。」
 
明帝は書を読んで悲慟しました。太后と共に皇宮を出て津門亭に臨み、発哀(哀悼)します。
資治通鑑』胡三省注によると、津門は雒陽城南面の西側に位置する門で、一名を津陽門といいます。各城門に亭がありました。

東海国は光武帝建武二十八年52年)魯国が編入されました。今回、劉彊の上書によって東海国の地は朝廷に返還されて郡になり、東海王は魯国だけを治めるようになったようです。但し、東海王という王号は変わっていません。今後、魯国や魯相という記述が出てきますが、国王は東海王で、魯相は東海王の相を指すと思われます。

明帝は司空(『資治通鑑』は「大司空」としていますが、「司空」のはずです。『後漢書・顕宗孝明帝紀』では「司空」と書かれています)馮魴に符節を持たせて喪事を監督させました(持節護喪事)
劉彊への贈送(賞賜)は殊礼(特別な礼)を用いて升龍旄頭(儀仗の先頭を進む騎兵)、鑾輅(皇帝の車)、龍旂(龍の旗)を下賜し(『資治通鑑』胡三省注によると、大司空が藩王の喪事を監督するのも殊礼に当たります)、詔を発して楚王劉英、趙王劉栩、北海王劉興および京師の親戚を全て葬儀に参加させました(劉英は許美人の子で明帝と劉彊の異母兄弟です。劉栩は劉良の子で、劉良は光武帝の叔父です。劉興は光武帝の兄劉縯の子です)
 
六月乙卯、東海恭王が埋葬されました。
明帝は劉彊が謙倹(謙虚倹約)を堅持していたことを追念し、厚葬したら意思に違えることになると判断しました。そこで特別に詔を発しました「遣送の物(礼物。副葬品)は約省(節倹簡易)に従うように務めよ。衣服は形(遺体)を包むに足り(衣足斂形)、茅車瓦器を使い、物品は制度より減らし(物減於制)、こうすることで王の卓越した独行(節操が高尚なこと)の志を明らかにする(彰王卓爾独行之志)。」
 
将作大匠が東海王国に留まって陵廟を建設しました。
資治通鑑』胡三省注によると、秦代に将作少府があり、西漢景帝が将作大匠に改名しました。宗廟、路寝(帝王の正殿)、宮室、陵園の建設を担当したり、道に桐梓等の木を植える作業を監督しました。
 
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉彊の子劉政が跡を継ぎました。諡号は靖王です。
しかし劉政は欲を恣にして品行が正しくありませんでした(淫欲薄行)。後に中山簡王(劉焉)が死ぬと東漢和帝永元二年90年)、劉政は中山王の葬儀に参加し、秘かに簡王の姫である徐妃を奪いました。また、掖庭後宮からも女を連れ出しました。
豫州刺史と魯相が劉政の誅殺を請いましたが、詔によって薛県を削られただけでした。
劉政の死後は子の頃王劉肅が継ぎました。



次回に続きます。