東漢時代72 明帝(一) 劉彊 58年(1)
今回から東漢明帝の時代です。
顕宗孝明皇帝
光武帝の第四子で、母は陰皇后です。
元の名は劉陽といい、後に劉荘に改名しました。
博士・桓栄に師事し、『尚書』を学んで精通しました。
中元二年(58年)、三十歳で皇帝の位に即きました。
中元二年の出来事は既に書いたので省略します。
東漢明帝永平元年
戊午 58年
侍衛の官は皆、神坐の後ろに座り、太官が食事を献上して、太常が音楽を奏でました。
この儀式は正月の慣例になりました。
『資治通鑑』胡三省注によると、『諡法』には「義を行って民を喜ばせることを元という(行義説民曰元)」「義を重視して徳を行うことを元という(主義行徳曰元)」とあります。但し、鄧禹は中興の元功だったため、特別に「元」を諡号にしました。後世になって『諡法』に「徳が盛んで業績が大きいことを元という(茂徳丕績曰元)」という解釈が追加されます。
明帝は使者と太医を駅(駅車)で派遣して病を看させました。(使者や太医の)往来が絶えなくなります(駱駅不絶)。
また、明帝は沛王・劉輔、済南王・劉康、淮陽王・劉延にも詔を発し(三人とも劉彊の同母弟です)、魯(東海王国の都のようです)を訪ねて見舞いをさせました。
戊寅(二十二日)、劉彊が死にました。
劉彊は死に臨んで恩に謝す上書を行い、こう言いました「この身は既に夭命(短命)になり、孤弱(孤児。劉彊の子)もまた皇太后(陰后)と陛下の憂慮に為り、誠に悲痛し、慚愧しています(誠悲誠慙)。息政(息子の劉政)は小人(子供)で、とりあえず臣の後を襲う(継ぐ)立場にいますが(猥当襲臣後)、(王位を継がせるのは)利を全うする方法ではありません(必非所以全利之也)。よって、東海郡を還すことを願います。今、天下は大憂に遭遇したばかりなので(光武帝の死を指します)、陛下が皇太后への供養を加え(陛下が皇太后に更に孝行を行い)、頻繁に御餐(食事)を進めることを思います(願います)。臣彊は困劣(虚弱)で、言が意を尽くすことができないので、併せて諸王に謝すことを願います。今後会えなくなるとは思いませんでした(不意永不復相見也)。」
『資治通鑑』胡三省注によると、津門は雒陽城南面の西側に位置する門で、一名を津陽門といいます。各城門に亭がありました。
東海国は光武帝建武二十八年(52年)に魯国が編入されました。今回、劉彊の上書によって東海国の地は朝廷に返還されて郡になり、東海王は魯国だけを治めるようになったようです。但し、東海王という王号は変わっていません。今後、魯国や魯相という記述が出てきますが、国王は東海王で、魯相は東海王の相を指すと思われます。
劉彊への贈送(賞賜)は殊礼(特別な礼)を用いて升龍旄頭(儀仗の先頭を進む騎兵)、鑾輅(皇帝の車)、龍旂(龍の旗)を下賜し(『資治通鑑』胡三省注によると、大司空が藩王の喪事を監督するのも殊礼に当たります)、詔を発して楚王・劉英、趙王・劉栩、北海王・劉興および京師の親戚を全て葬儀に参加させました(劉英は許美人の子で明帝と劉彊の異母兄弟です。劉栩は劉良の子で、劉良は光武帝の叔父です。劉興は光武帝の兄・劉縯の子です)。
六月乙卯、東海恭王が埋葬されました。
明帝は劉彊が謙倹(謙虚・倹約)を堅持していたことを追念し、厚葬したら意思に違えることになると判断しました。そこで特別に詔を発しました「遣送の物(礼物。副葬品)は約省(節倹・簡易)に従うように務めよ。衣服は形(遺体)を包むに足り(衣足斂形)、茅車・瓦器を使い、物品は制度より減らし(物減於制)、こうすることで王の卓越した独行(節操が高尚なこと)の志を明らかにする(彰王卓爾独行之志)。」
将作大匠が東海王国に留まって陵廟を建設しました。
しかし劉政は欲を恣にして品行が正しくありませんでした(淫欲薄行)。後に中山簡王(劉焉)が死ぬと(東漢和帝永元二年・90年)、劉政は中山王の葬儀に参加し、秘かに簡王の姫である徐妃を奪いました。また、掖庭(後宮)からも女を連れ出しました。
豫州刺史と魯相が劉政の誅殺を請いましたが、詔によって薛県を削られただけでした。
劉政の死後は子の頃王・劉肅が継ぎました。
次回に続きます。