東漢時代74 明帝(三) 養老の礼 59年(1)

今回は東漢明帝永平二年です。二回に分けます。
 
東漢明帝永平二年
己未 59
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月辛未(十九日)、明帝が光武皇帝を明堂で宗祀しました。
資治通鑑』胡三省注によると、「宗」は「尊」に通じます。先人を尊んで上帝に配す祭祀を「宗祀」といいます。
 
明帝および公卿列侯が始めて制度に則った冠冕、衣裳、玉佩、絇屨(装飾された靴)を身に着けて祭祀を行いました(前年の東平王劉蒼の上奏が元になっています。『後漢書・顕宗孝明帝紀』の注と資治通鑑』胡三省注が衣冠、玉佩等の説明を書いていますが省略します)
 
祭礼が終わってから、明帝が霊台に登って雲物(雲気、雲彩。天象)を望みました(「雲物」を観察することによって吉凶を判断しました)
 
明帝が尚書令に符節を持たせ、驃騎将軍(劉蒼)と三公に対して詔を宣布させました「今、令月吉日(吉月吉日)に光武皇帝を明堂で宗祀(祖宗の祭祀)し、五帝に配した。礼によって法物(祭祀の器物)を備え(礼備法物)、音楽が八音を調和させ(楽和八音)、福を詠って功徳を舞い(原文「詠祉福舞功徳」。「祉」も「福」と同じです。『顕宗孝明帝紀』の注によると、西漢景帝の詔に「歌は徳を発し、舞は功を明らかにする」とあります)、時令を布告して(「時令」は季節ごとの政令です。季節ごとにやるべき事があり、時機から外れたら妖災を招くため、政府が政令として布告しました)群后(諸侯公卿)を戒めた其班時令勑群后)
事が終わったら霊台に登って元気(天の気)を望み、時律(季節に合わせた音律)を吹き、物変(事物の変化)を観た。
群僚藩輔(政事を輔佐する百官)、宗室子孫、衆郡奉計(各郡の計吏。郡の状況を報告に来た官吏)、百蛮貢職(進貢に来た諸異民族の長)烏桓濊貊が全て来て祭を助け、単于侍子(入侍している単于の子)、骨都侯も皆、陪位(参加)した。これは元より聖祖の功徳がもたらしたものである。
朕は闇陋(暗愚)によって大業を奉承(継承)し、自ら珪璧(祭祀で使う玉器)を持って天地を恭しく祀った。先帝が命を受けて中興し、撥乱反正(乱を治めて正常に返ること。「反」は「返」です)して天下を安寧にし、泰山を封じ、明堂を建て、辟雍を立て、霊台を起こし、大道を高揚して八極(天下)を被った(覆った)こと(恢弘大道被之八極)を仰ぎ思う。しかし胤子(後嗣。明帝)には成康西周成王と康王)の質(資質)がなく、群臣にも呂旦西周初期の功臣呂尚と周公旦)の謀がないので、身を清めて酒を進め盥洗進爵)、踧踖(恭敬な姿)としてただ慚愧するだけだ(踧踖惟慙)。素性(本性。性格)が頑鄙(愚鈍)なので、事に臨んでますます懼れる。これは『君子は堂々としているが、小人は常に憂いて不安でいる(君子坦蕩蕩,小人長戚戚)』というものである。
ここに天下に命じて、殊死已下(死刑以下)、謀反大逆の者も皆、赦して刑を除く(皆赦除之)。百僚師尹(「師尹」は各官の長です)はその職を修めることに勉め、時令に順じて行動し、昊天(上天)を敬って順い(従い。原文「敬若昊天」。『顕宗孝明帝紀』の注によると、「若」は「順」です)、こうすることで兆人(万民)を安定させよ(以綏兆人)。」
 
こうして大赦が行われました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と資治通鑑』からです。
三月、明帝が辟雍(学校)に臨み、初めて大射礼(射術を競う儀式)を行いました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
秋九月、沛王・劉輔、楚王・劉英、済南王・劉康、淮陽王・劉延、東海王・劉政が来朝しました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月壬子(初五日)、明帝が辟雍を行幸し、初めて養老の礼を行いました。李躬を三老に、桓栄を五更にします。
資治通鑑』胡三省注によると、三老は天・地・人の事を知る老人、五更は五行の更代(交代)を知る老人です(三人と五人いるわけではありません。それぞれ一人です)。天子が父兄に対する礼で三老・五更を養って天下の孝弟に示しました。「三」と「五」は三辰(日月星)、五星(水土の五星)から命名されています。天が天下を照らして明るくする存在だからです。
 
三老は都紵大袍を着て進賢冠を被り、玉杖を持ちました。
資治通鑑』胡三省注によると、「都紵」は布の一種です。「進賢冠」はかつては「緇布冠」と呼ばれており、文儒者(文士儒者が被りました(冠の詳しい解説は省略します)。「玉杖」は県道の家ごとに年齢を確認して七十歳になった民に下賜しました。長さは七尺で、頭に鳩の飾りがあります。鳩は「不噎の鳥(喉を詰まらせない鳥)」とされており、老人が喉を詰まらせないことを願っています。
五更も衣服と冠は三老と同じでしたが、杖はありません。
 
乗輿(明帝)が辟雍の礼殿に到り、御坐(皇帝の席)を東廂に置きました。そこから使者を派遣して安車(座って乗る小車)太学講堂の三老と五更を迎えます(三老と五更は太学講堂に入って待機していました)
三老と五更が来ると、明帝自ら門屛(門と屏の間。屏は大門の内側にある壁です)で出迎えて礼を交わしました。
 
明帝が阼階(東側の階段)から殿上に導き、三老が賓階(西側の階段)から登ります。階段に至ると(階段の前で)明帝が礼に従って揖を行いました(道自阼階,三老升自賓階。至階,天子揖如礼)
三老は殿上に登って東を向きました。三公が几(肘置き)を置き、九卿が履物を正し(並べ)、明帝が自ら上着を脱いで犠牲をさばき(親袒割牲)、醤(調味料)をもって食事を進め(執醤而饋)、爵(杯)をもって酒を進めます(執爵而酳)。まず不鯁(不哽)を祈り、後に不饐を祈りました(原文「祝鯁在前,祝饐在後」。「鯁」も「饐」も喉を詰まらせることです。両者の差はよくわかりません。『資治通鑑』胡三省注に「饐」は「食物が詰まって気が通じないこと(食窒気不通)」とあります。「鯁」は食物が詰まって飲み込めないこと、「饐」は呼吸ができないことかもしれません)
五更は南面して坐りました。三公が進供し(酒や食物を進め)儀礼は三老と同じでした。
 
礼が終わってから、明帝が桓栄と弟子を率いて堂上に登り(恐らく講堂に移動したのだと思われます。原文「引桓栄及弟子升堂」)、明帝自ら講義しました。諸儒が明帝の前で経書をもって問難(質問。討論)します。
橋門を囲んで観聴する冠帯縉紳の人(「冠帯」は貴族や士人、「縉紳」は官員です)が無数にいました(蓋億万計)
資治通鑑』胡三省注によると、辟雍には四門があり、水で囲まれていたため、門の外に橋がありました。観聴に来た人は水の外におり、橋門の周りに集まりました。
 
その後、明帝が詔を下して桓栄に関内侯の爵を与え、三老と五更に終生二千石の禄を与えて養うことにしました。また、天下の三老に一人当たり一石の酒と四十斤の肉を下賜しました。
以下、『顕宗孝明帝紀』から詔の内容です「光武皇帝が三朝の礼(『顕宗孝明帝紀』の注によると、明堂、辟雍、霊台を指します)を建てたが、まだ臨饗(宴を開いて慰労すること)には及ばなかった。眇眇小子(微弱な子供。明帝を指します)が聖業(帝王の大業)に当たることになったので(属当聖業)、暮春吉辰(三月吉日)を機に初めて大射を行い、令月元日(吉月吉日)に再び辟雍を訪れ、三老に尊事し、五更に兄事し、安車輭輪(「輭輪」は蒲で覆った車輪です。車の揺れを防ぎます)を準備して、(天子自ら)(車に乗り降りする時に持つ縄です)を持ってこれを授けた(原文「供綏執授」。『顕宗孝明帝紀』の注が「三老が車に乗る時、天子が自ら綏を持って授けた」と解説しています)
侯王が醤を設け、公卿が饌珍し(珍味を並べ)、朕自ら上着を脱いで割き(朕親袒割)、杯を持って酒を進めた(執爵而酳)。先に不哽を祈って後に不噎を祈り(祝哽在前祝噎在後)、堂上で『鹿鳴詩経小雅)』を歌い(升歌鹿鳴)、堂下で『新宮(『顕宗孝明帝紀』の注によると、『詩経小雅』の詩ですが、残されていません)』を奏で(下管新宮)、八佾(六十四人の楽舞)が全て揃い(八佾具脩)、庭で万舞した。
朕は元から徳が薄く、どうして(天子の責任に)当たることができるだろう(何以克当)。『易』は負乗(『顕宗孝明帝紀』の注によると、『易』に「負且乗,致寇至」という言葉があります。負は小人、乗は君子の器です。「小人が君子の器を持ったら盗賊に狙われる」という意味で、能力がないのに高位に居ることを批難する言葉です)を述べ、『詩』は彼己(『詩経曹風候人』に「彼己之子,不稱其服」という句があります。「彼のような者はその官服に相応しくない」という意味です)を風刺している。永く慙疚(慚愧、憂慮)を念じ、その心を忘れたことがない。
三老李躬は老年で学に明るく(年耆楽明)、五更桓栄は朕に『尚書』を教授した。『詩(大雅抑)』はこう言っている『徳が無ければ報いられず、言がなければ応えも返ってこない(逆に、徳があれば報いられ、言葉を発したら返事がきます。恩徳には報いなければならないという意味です。原文「無徳不報,無言不酬」)。』よって栄に関内侯の爵と食邑五千戸を下賜とする(李躬が封侯されたかどうかは不明です)。三老五更はどちらも二千石の禄でその身を終生養わせる。また、天下の三老に一人当たり酒一石と肉四十斤を下賜する。有司(官員)は耆耋(老齢者。『顕宗孝明帝紀』の注によると、六十歳を耆、七十歳を耋といいます)を慰労し、幼孤(幼少な孤児)を慈しみ、鰥寡(配偶者を失った男女)に恩恵を与え、朕の意にそうようにせよ(存耆耋,恤幼孤,恵鰥寡,称朕意焉)。」
 
 
 
次回に続きます。