東漢時代78 明帝(七) 于窴王と莎車 61年

今回は東漢明帝永平四年です。
 
東漢明帝永平四年
辛酉 61
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
春二月辛亥、明帝が詔を発しました「朕が自ら藉田を耕し、農事を祈った(以祈農事)。京師は冬に宿雪がなく(雪が積もらず)、春に燠沐温暖湿潤がなかったので、群臣を煩労させ、精気を蓄えて祷求(福を求めて祈ること)した(積精祷求)。その結果、最近再び時雨(時に応じた雨)を得て、宿麦(冬麦)が潤沢になった。よって公卿に半奉(一年の半分の俸禄)を下賜する。有司は勉めて時政(時令。季節ごとに定めた農事に関する政令を遵守し、刑罰を公平にすることに務めよ。」
 
古代は民に農耕を奨励するために天子や諸侯が田を耕しました。その地を「藉田」といいます。
『顕宗孝明帝紀』の注によると、正月に藉田を耕し、儀式が終わったら先農を祀って報告しました。先農は神農炎帝です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この春、明帝が外出して付近の城第(雒陽城楼や邸宅。『資治通鑑』胡三省注によると、家には甲乙等の序列があったため、邸宅を「第」といいます)を観覧しました。
 
明帝が河内(『資治通鑑』胡三省注によると、雒陽の北百二十里の地です)で校猟(狩猟)をしようとしましたが、東平王劉蒼(明帝の同母弟)が上書して諫めました。
明帝は奏表(上奏文)を読むとすぐ皇宮に帰還しました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋九月戊寅(十二日)、千乗王劉建(哀王。明帝の子です)が死にました。
後嗣がいなかったため、国が廃されました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月乙卯(十九日)、司徒郭丹と司空馮魴を罷免しました。
丙辰(二十日)、河南尹沛国の人范遷を司徒に、太僕伏恭を司空にしました。伏恭は伏湛光武帝時代の大司徒)の兄の子です。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、陵郷侯梁松が、朝廷に対して怨望(怨恨)を抱き、飛書(匿名の書)を掲げて誹謗した罪を問われ坐怨望縣飛書誹謗)、獄に下されて死にました。
梁松はかつて馬援を讒言した人物です光武帝建武二十五年49年参照)
資治通鑑』胡三省注によると、梁松の父梁統が陵郷侯に封じられ、梁松はそれを継いでいました。
 
以前、明帝が太子だった時、太中大夫鄭興の子鄭衆が経典に精通していたため名を知られていました。
太子(明帝)と山陽王劉荊(明帝の弟)が鄭衆を招くために梁松を通して縑帛(絹織物)を贈りましたが、鄭衆はこう言いました「太子は儲君(副君。後嗣)なので外交の義(外部の者と交わる道理)がありません。漢には旧防(諸侯王の勢力を抑える旧制)があるので、蕃王は個人的に賓客と通じるべきではありません。」
梁松が「長者(顕貴な者)の意には逆らえません」と言いましたが、鄭衆は「禁(禁令)を犯して罪に触れるくらいなら、正(正道)を守って死んだ方がましです」と言って赴きませんでした。
後に梁松が罪を得ると、賓客の多くが連座しましたが、鄭衆だけは影響を受けませんでした(不染於辞)
 
[] 『資治通鑑』からです。
広徳が西域諸国の兵三万人を率いて莎車を攻め、莎車王賢を誘い出して殺しました。于が莎車国を併合します。
そこで匈奴が諸国の兵を動員して于を包囲しました。広徳は匈奴に投降を請います。
匈奴は莎車王賢が匈奴に送っていた質子(人質)不居徵を莎車王に立てました。
しかし于広徳がまた不居徵を攻めて殺し、改めて弟の斉黎を莎車王に立てました。
 
後漢書西域伝(巻八十八)』に詳しく書かれているので、以下、引用します。
これ以前に匈奴が亀茲等の諸国と共に莎車を攻撃しましたが、降せませんでした。
広徳は莎車の疲弊に乗じ、弟の輔国侯仁に兵を率いて莎車王賢を攻撃させました。賢は相次いで兵革を被ったため(攻撃を受けたため)、使者を送って広徳と和しました。広徳の父が数年にわたって莎車に拘留されていたため、賢は広徳の父を帰らせ、自分の娘を広徳に嫁がせて兄弟の契りを結びます(原文「結為昆弟」。実際は広徳が賢の娘と結婚したので親子の関係になります)
広徳は莎車から兵を還しました(ここまでは昨年にも書きました)
本年、莎車の相且運等が賢の驕暴を憂い、離反を密謀しました。城を挙げて于に降ろうとします。
そこで于広徳が諸国の兵三万人を率いて莎車を攻めました。
莎車王賢は城を守り、使者を送って広徳に問いました「わしは汝の父を還し、汝に婦を与えた(娘を結婚させた)。汝がわしを攻撃しに来たのはなぜだ?」
広徳が答えました「王は私の婦父(妻の父)です。久しく会っていないので、それぞれ二人だけ従えて城外で会い、盟を結ぶことを願います。」
賢が且運に意見を求めると、且運は「広徳は女婿(娘婿)で至親(最も親しいこと)なので、外に出て会うべきです」と答えました。
賢は軽装で外出します。
広徳はその機に賢を捕えました。且運等も城中で于兵に内応します。
広徳は賢の妻子を捕えてその国を併合し、賢を鎖で繋いで帰国しました。賢は一年余りして殺されます。
 
匈奴は広徳が莎車を滅ぼしたと聞き、五将を派遣しました。焉耆、尉黎、亀茲等十五国の兵三万余人を動員して于を包囲します。
広徳は太子を人質にして投降を請い、毎年、罽絮(綿)を献上することを約束しました。
冬、匈奴が莎車に兵を送って賢の質子不居徵を莎車王に立てました。
しかし広徳がこれを攻めて殺し、その弟(不居徵の弟)斉黎を莎車王に立てました。
 
尚、『西域伝』はこれを章帝元和三年86年)の事としていますが、『資治通鑑』は明帝永平四年61年。本年)に書いています。
後漢書班梁列伝(巻四十七)』を見ると明帝時代に「当時は于広徳が莎車を攻めて破ったばかりだった」と書かれているので、『西域伝』が誤りです。
 
 
 
次回に続きます。