東漢時代79 明帝(八) 竇氏衰落 62年
今回は東漢明帝永平五年です。
東漢明帝永平五年
壬戌 62年
驃騎将軍・東平王・劉蒼は至親(皇帝との関係が最も親しい者)として輔政するようになってから、声望が日に日に重くなったため、心中で不安を抱きました。
そこで繰り返し上書してこう言いました「漢が興きて以来、宗室の子弟で公卿の位にいられた者はいません。驃騎将軍の印綬を返上し、退いて藩国に就くことを乞います。」
劉蒼の言葉がとても懇切だったため、明帝は劉蒼が国に還ることに同意しました。但し、将軍の印綬を返上することは許可しませんでした。
春二月庚戌、劉蒼が藩国に還りました。
明帝は驃騎長史を東平太傅に、掾を中大夫に、令史を王家郎に任命し、銭五千万、布十万匹を特別に下賜しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、将軍には長史が一人おり、秩千石でした。掾属は二十九人で、秩は比四百石から比二百石、令史および御属(官名)は三十一人で、秩百石です(驃騎将軍・劉蒼のために置いた掾・史は四十人だったので、状況によって人数は変わったようです)。
王国の太傅は秩二千石、中大夫は比六百石、郎は二百石です。
琅邪王・劉京(明帝の同母弟)が封国に赴きました。
明帝が詔を発して言いました「豊、沛、済陽は命(天命)を受けた場所なので(受命所由)、恩を加えて徳に報いるのは当然なことである(適其宜也)。今、永平の政(明帝の治世)において、百姓が怨を結んおり(怨恨しており)、そのため吏人が復(賦役の免除)を求めた。人を愧笑(恥じ入って笑うこと)させることである(百姓が怨恨して賦税の免除を求めるのは、朕を愧笑させることである。原文「令人愧笑」)。この県の拳拳(勤勉、または誠実な様子)に逆らうのは難しい(重逆此県之拳拳)。よって元氏県の田租・更賦(労役の代わりに払う税)を六歳(六年)復し(免除し)、県の掾史から門闌(門番)、走卒(使用人)におよぶまで労賜(慰労賞賜)する。」
同月、明帝が皇宮に還りました。
十一月、北匈奴が五原を侵しました。
この年、内郡に住む辺民(辺境の民)を徴集して還らせ、装銭(旅費)として一人当たり二万銭を下賜しました。
安豊侯・竇融(戴侯)が老齢になってから、子や孫が縦誕(放縦)になり、法を犯すことも度々ありました。
長子・竇穆は内黄公主(詳細不明)を娶りました。
竇融の封地が安豊だったため、竇穆は近隣の六安国を姻戚(親戚)に占拠させようとしました(安豊も六安も廬江郡に属します)。そこで、内黄公主との関係を利用して陰太后の詔を偽り、六安侯・劉盱に妻と別れさせて(去婦)、自分の娘を娶らせました。
この事を劉盱の婦家(妻の家)が上書して訴えました。
明帝は激怒して竇穆等の官を全て罷免し、諸竇(竇氏)で郎吏になった者も皆、家属を率いて故郡(故郷の郡。竇氏は扶風平陵の出身です)に帰らせ、竇融だけを京師に留めました。
しかし竇穆等が西の函谷関に至った時、明帝が詔を発して全て雒陽に戻らせました。
竇融死後も竇穆は修尚(修養)できず、豊かな財産を擁して大邸宅に住んでいました。
明帝は常に謁者一人を送ってその家を監護させました。
明帝は竇穆の家属を全て本郡(故郷の郡)に帰らせました。但し、竇勳(竇穆の子)だけは沘陽公主(東海王・劉彊の娘)の婿だったため京師に留められます。
後に竇穆は小吏に賄賂を贈った罪で郡に逮捕され、子の竇宣と共に平陵獄で死にました。竇勳も洛陽獄で死にます。
久しくして詔が発せられ、竇融夫人と小孫一人(恐らく下述する竇嘉です。竇穆の子なので竇融の孫に当たります)が洛陽の家舍に呼び戻されました。
永平十四年(71年)、明帝が竇勳の弟・竇嘉を安豊侯に封じて食邑を二千戸とし、竇融の後を継がせました。
次回に続きます。