東漢時代92 明帝(二十一) 明帝の死 75年(1)

今回は東漢明帝永平十八年です。三回に分けます。
 
東漢明帝永平十八年
乙亥 75
 
[] 『資治通鑑』からです。
春二月、明帝が竇固等に詔を発し、撤兵して京師に還らせました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
単于が左鹿蠡王を派遣し、二万騎を率いて車師を撃たせました。
 
戊校尉耿恭が車師を援けるために司馬に兵三百人を率いさせて派遣しましたが、全滅しました(皆為所没)
匈奴は車師後王安得を破って殺し、金蒲城を攻めました。
 
金蒲城を守る耿恭は毒薬を矢に塗り、匈奴に向かってこう言いました「漢家の箭神(矢の神)だ。中って負傷した者は必ず異変が起きる(其中瘡者必有異)。」
匈奴で矢に中った者が傷を見ると、皆沸きたっていたため(沸騰したように痛んだため)、大いに驚きました(視瘡皆沸大驚)
ちょうど暴風雨が降りました。耿恭は雨に乗じて出撃し、多くの匈奴兵を殺傷します。
匈奴は震え怖れて互いに「漢兵は神だ。真に畏れるべきだ(真可畏也)」と言い、包囲を解いて引き上げました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
三月丁亥、明帝が詔を発しました「天下で亡命(逃亡)している、殊死已下(死刑以下)の者に贖罪させる。死罪は縑(絹の一種)三十匹、右趾から髠鉗城旦舂は十匹、完城旦から司寇は五匹を納めさせる(それぞれの刑については光武帝中元二年57年に書きました)。吏人(官吏や民)で罪を犯したもののまだ発覚しておらず、詔書が到って自告(自白)した者は、贖罪として半数を納めさせる(半入贖)。」
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
夏四月己未、明帝が詔を発しました「この春以来、時雨(季節に適した雨)が降らず、宿麦(冬麦)が傷旱し(旱害のために痛み)、秋種(秋に収穫する穀物の種)をまだ撒けず(秋種未下)、政が中(中正。中庸)を失い、ただ憂懼するだけである。よって、天下の男子一人当たりに二級の爵を、流民(流亡の民)で名数(名簿戸籍)がなくても名乗り出て籍を欲した者(流民無名数欲占者)には一人当たり一級を下賜する。鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)𤸇(重病の者)貧しくて自存できないも者には一人当たり三斛の粟を与える。冤獄を理し(解決し)、軽罪の者を録せ(原文「録軽繫」。恐らく刑犯罪者は氏名を記録して釈放したのだと思います)。二千石は別れて五岳四瀆(「瀆」は河川です。「五岳」は泰山、華山、衡山、恒山、嵩山を指し、「四瀆」は長江、黄河、淮水、済水を指します)で祈祷せよ。郡界に雲雨を興せる名山大川がある者は、長吏がそれぞれ絜斎(潔斎。斎戒)祷請(祈祷請願)し、嘉澍(時雨)を蒙ることを願え。」
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と資治通鑑』からです。
夏六月己未(十二日)、孛星(彗星の一種)が太微に現れました。
太微は天子の居所、または朝廷を象徴します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
耿恭は疏勒城の傍に澗水(山間を流れる川。小渓)があり、固守できると判断したため、兵を率いて占拠しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、この疏勒城は疏勒国の城ではなく、車師後部の城です。疏勒国では遠く離れすぎています。耿恭は車師後部の金蒲城にいましたが、疏勒城に移りました。
 
秋七月、匈奴が再び攻めて来ました。澗水の流れを止めます。
耿恭は城中に十五丈の井戸を掘りましたが、水を得られず、吏士が渴乏しました。馬糞を押しつぶして汁を作り、それを飲む者もいます。
耿恭は自ら士を率いて籠(土を盛る道具)を牽き、井戸を掘りました。
暫くしてついに水泉が湧き出しました(水泉奔出)
漢兵が皆、万歳を称えます。
 
耿恭は吏士に命じ、水を揚げて北匈奴に示しました(原文「揚水以示虜」。「揚水」は水を高い所に上げるという意味ですが、ここでは井戸水を汲んだという意味だと思います)
北匈奴は思いもよらなかったことだったため、神明だと思い、兵を率いて去りました。
 
後漢書・顕宗孝明帝紀』には「北匈奴と車師後王が戊己校尉・耿恭を包囲した」とありますが、「戊己校尉」は「戊校尉」の誤りです。
 
[七] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月壬子(初六日)、明帝が東宮前殿で死にました。四十八です。
明帝は遺詔で「寝廟を建てる必要はない。主(神主。牌位)は光烈皇后(陰太后の更衣別室(墓陵内の部屋です)にしまえ(無起寝廟,藏主於光烈皇后更衣別室)」と命じました(本来、牌位は廟に置かれますが、廟を建てないことにしたため、陰太后陵で保管するように命じました)
 
明帝は建武光武帝の制度を守って変更しようとせず、后妃の家族には封侯参政の権利を与えませんでした。
以前、館陶公主が子のために郎の職を求めましたが、明帝は同意せず、銭千万を下賜して群臣にこう言いました「郎官は上は列宿(星宿。星座)に応じ(『資治通鑑』胡三省注によると、太微宮の後ろにある二十五星が郎の位を象徴します)、外に出たら県の長になる(原文「出宰百里」。百里は一県の面積です。「出宰」は「朝廷を出て県官を勤める」という意味です)。もしその人でなかったら(相応しい人材ではなかったら。原文「苟非其人」)、民がその殃(禍)を受けることになる。だからこれを難としたのだ(要求に同意できなかったのだ。原文「是以難之」)。」
資治通鑑』胡三省注によると、館陶公主は光武帝の娘で名を劉紅夫といいます。駙馬都尉韓光に嫁ぎました。
 
当時の公車(官署名。外部からの上書を受け取ります)には、「反支日」は章奏(上奏文)を受け付けないという決まりがありました。
資治通鑑』胡三省注によると、「反支日」は月朔(月の初めの日)と関係があります。朔(初一日)が戌か亥の日(十二支の十一番目と十二番目)だったら、反支日は「初一日」になります。朔が申か酉の日(十二支の九番目と十番目)だったら反支日は「初二日」になります。朔が午と未の日だったら(十二支の七番目と八番目)、反支日は「初三日」になります。朔が辰か巳の日(十二支の五番目と六番目)だったら、反支日は「初四日」になります。朔が寅か卯の日(十二支の三番目と四番目)だったら、反支日は「初五日」になります。朔が子か丑の日だったら(十二支の一番目と二番目)、反支日は「初六日」になります。
 
明帝はこれを聞いて不思議に思い、こう言いました「民が農桑を廃して(棄てて)遠くから闕を訪ねに来たのに、またこのような禁忌によって規制するのは、どうして治世の本意といえるだろう(豈為政之意乎)。」
明帝はこの制度を廃止しました。
 
尚書閻章の二人の妹が明帝の貴人になりました。
閻章は努力して旧典に精通し(精力曉旧典)、久しく重職に移るべき立場にいましたが、明帝は閻章が後宮の親属だったため任用しませんでした。
 
このようだったので、官吏は相応しい人材を用いることができ(吏得其人)、民は自分の業を楽しみ、遠近が粛然と畏服して戸口が滋殖(繁衍。増加。増え拡がること)しました。
 
明帝とその跡を継いだ章帝の時代は「明章の治」と称されています。
 
 
 
次回に続きます。