東漢時代98 章帝(四) 馬太后 77年(1)

今回は東漢章帝建初二年です。二回に分けます。
 
東漢章帝建初二年
丁丑 77
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
春三月辛丑、章帝が詔を発しました「比年(近年。連年)、陰陽が不調で飢饉が相次いで到っている。深く先帝の憂人の本(民に代わって憂いる根本)を思うに、(先帝は)詔書でこう言った『財を傷つけず、人を害さない。』誠に元元(民衆)が末(工商業)を去って本(農業)に帰ることを欲したのである。しかし今、貴戚近親は奢縦(奢侈放縦)に度がなく、嫁聚送終(婚礼葬儀)は特に僭侈(制度を越えた奢侈)になっている。それなのに有司(官吏)は典(法令)を廃して挙察(検挙)しようとする者がいない。春秋の義においては、貴(貴人。身分が高い者)によって賎(庶民。身分が低い者)を治めるものである(以貴理賎)。今後、三公は全て非法を明確に糾弾し、威風を宣振(宣揚)するべきである。朕は弱冠にあり、まだ稼穡(農業)の艱難を知らない。小さな管から窺い見て、どうして一方を照らせるだろう(区区管窺豈能照一隅哉)。科條(法律)制度で施行すべき内容は、当事者がそれを備えて禁令とし(当事者は法律制度を遵守し。原文「在事者備為之禁」)、先に京師で始めて後に諸夏(諸侯)に拡めよ(先京師而後諸夏)。」
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲辰(初八日)東漢が伊吾盧の屯兵を撤収しました。
匈奴が再び兵を送ってその地を守りました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
永昌、越益州三郡の兵(『後漢書・粛宗孝章帝紀』は「三郡の民」と書いていますが、『資治通鑑』に従って「兵」にしました)および昆明夷の鹵承等が哀牢王類牢(前年参照)を博南で撃ち、大破して斬りました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月戊子(二十二日)、章帝が詔を発し、楚と淮陽の事件(明帝永平十四年71年および永平十六年73年)に坐した徙者(流刑者)四百余家を本郡(故郷の郡)に還らせました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
癸巳、章帝が斉相に詔を発し、冰紈、方空縠、吹綸絮を省かせました。
「冰紈」「方空縠」「吹綸絮」は絹織物です。『粛宗孝章帝紀』の注によると、斉には三服官(皇室の衣服を作る官)がありましたが、今回の詔で廃されました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
章帝が諸舅(母太后の兄弟)の封爵を欲しましたが、馬太后は同意しませんでした。
ちょうど旱害があったため、この事を議論した者は外戚を封侯していないことが旱害の原因だとみなしました。
有司(官員)西漢時代の旧典に則って、皇帝の恩沢(恩恵)によって外戚を封侯するように請いました。
 
太后が詔を発しました「議論している者達は(凡言事者)、全て朕(漢代は皇太后も「朕」と称しました)に媚びることで福を求めようと欲しているだけです。昔、王氏の五侯が同日そろって封侯された時西漢成帝建始元年32年)、黄霧が四塞しましたが(四方を覆いましたが)、澍雨(大雨。時雨)の応は聞きませんでした(天が外戚の封侯に感応して雨を降らせたとは聞いたことがありません)外戚が貴盛になってから傾覆(転覆。滅亡)しないのは稀です(原文「鮮不傾覆」。外戚が盛んになったら王朝が滅びます)。だから先帝(明帝)は舅氏に対して防慎し(慎重に備え)、枢機の位に居させず、また、こう言いました『我が子を先帝光武帝の子と同等にするべきではない(原文「我子不当与先帝子等」。明帝永平十五年72年参照)。』今、有司(官員)はどうして馬氏を陰氏と比べようとしているのでしょうか。そもそも、陰衛尉(陰興)は天下に称賛されていましたが、省中(禁中)の御者(宮中の使者)(陰興の)門に至ったら、出迎えるのに履物を履くのも間に合いませんでした(出不及履)。これは蘧伯玉の敬です(蘧伯玉は衛の賢大夫です。「蘧伯玉の敬」というのは「蘧伯玉と同じように恭敬な態度」という意味です)。新陽侯(陰就)は剛強で時々道理に背くこともありましたが(微失理)、方略を持っており、座って談論(議論)したら(據地談論)朝廷に並ぶ者がいませんでした(一朝無双)。そして、原鹿貞侯(陰識)は勇猛誠信でした。この三人は天下の選臣(選ばれた優秀な臣)です。どうして及ぶことができるでしょう(豈可及哉)。馬氏は陰氏に遠く及びません。私は不才なので、朝から夜まで(緊張のため)息を詰まらせ(夙夜累息)、常に先后(先代の皇后)の法を損なうことを恐れ、毛髪の罪(些細な罪)でも赦すことなく、昼夜を捨てずにこれを言っています(昼も夜も訓戒しています。原文「言之不捨昼夜」)。しかし親属はこれを犯して止まず、喪を治めたら墳を起こし(親属を埋葬する時は大きな墳墓を造り)、しかもすぐには(過ちに)気がつきません(不時覚)。これは私の言が立たず(実行されず)、耳目が塞がれているのです。
私は天下の母になりましたが、身は大練(粗くて厚い織物)を服にしており、食事は甘味(美味)を求めず(食不求甘)、左右の者はただ帛布を著し(身に着け)、香薰の飾りもありません。これは身をもって下の者を導こうと欲しているからです(欲身率下也)。外親(母側の親戚。ここでは馬氏を指します)がこれ(馬太后の質素な姿)を見たら傷心して自分を戒めるはずだ(当傷心自敕)と思っていましたが、ただ笑って『太后は元から倹約を好む』と言うだけです。以前、濯龍門(『資治通鑑』胡三省注によると、濯龍は北宮の近くにある園です)を通った時、外家で起居を問いに来た者(馬太后に挨拶に来た者)を見たら、車は流水のように絶えることなく、馬は游龍(遊んでいる龍)のように盛大で(車如流水,馬如游龍)、倉頭(奴僕)も緑褠(『資治通鑑』胡三省注によると、緑の単衣です)を着て領袖が正白でした(襟や袖が純白でした。『資治通鑑』胡三省注によると、奴僕の服も全て新しくて汚れていなかったという意味です)。振り返って(私の)御者を見ると遠く及びません。それでも譴怒を加えることなく、ただ歳用(一年の費用)を絶つだけにしたのは、内心で慚愧することを期待したからです(冀以默愧其心)。ところがいまだに懈怠(怠惰不敬)は変わらず、国を憂いて家を忘れる思い憂国忘家之慮)がありません。臣を知るのに君に勝る者はいません(知臣莫若君)(臣が)親属ならなおさらです。どうして私が上は先帝の旨(意思)に背き、下は先人の徳を損ない、西京の敗亡の禍を重襲(繰り返すこと)することが許されるのでしょうか。」
「西京の敗亡の禍」は外戚による国家の滅亡を指すとも、西漢時代の外戚自身の滅亡を指すとも考えられます。西漢王朝は外戚王氏によって滅びました。また、西漢を通して、呂氏、上官桀安父子、霍氏等の外戚が誅滅されました。
 
太后はこのように馬氏の封侯に固く反対しました。
しかし章帝は馬太后の詔を読んで悲嘆し、再び封侯を求めてこう言いました「漢が興きてからは、舅氏の封侯は皇子を王にするようなものでした。太后は誠に謙虚な心を持っていますが(誠存謙虚)、どうして臣(章帝)だけに三舅への恩を加えさせないのでしょうか。そもそも衛尉は年尊(老齢)で、両校尉にも大病があるので(『資治通鑑』胡三省注によると、衛尉は馬廖で、両校尉は馬防と馬光です。三人とも太后の兄です)、もしも不諱になったら(もしも亡くなったら。原文「如令不諱」。「不諱」は「死亡」の婉曲な表現です)、臣に長く刻骨の恨(忘れられない悔恨)を抱かせることになります。吉時に乗じるべきであり(宜及吉時)、延期してはなりません(不可稽留)。」
 
太后が応えて言いました「私は反覆してこれを念じ、両善とさせることを思っています(『資治通鑑』胡三省注によると、「両善」は国家が妄りに恩恵を与えることなく、外戚も安全になることを指します)。どうしていたずらに謙譲の名を獲ることを欲して、帝に外施しない嫌外戚に恩恵を与えないことから生まれる怨恨や批難)を受けさせることがあるでしょう(豈徒欲獲謙讓之名而使帝受不外施之嫌哉)。昔、竇太后が王皇后の兄を封じようと欲しましたが、丞相條侯(周亜夫)が『高祖の約では軍功がなければ侯になれません』と言いました。今、馬氏は国に対して功がありません。どうして陰(陰氏と郭氏)の中興の后と等しくなれるでしょう。常に富貴の家を観るに、禄位が重疊(重なり合うこと)しているのは(俸禄が多くて爵位が高いのは)再実の木(一年に二回実が成る木)と同じで、その根は必ず傷んでいます。そもそも、人が封侯を願うのは、上は祭祝を奉じ(祖先の祭祀を継承し)、下は温飽を求めようと欲しているからに過ぎません。今、祭祀は太官の賜を受けており、衣食は御府の餘資(残った財物)を蒙っています(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢以来、皇后の家が父母を祭る時は太官が祭器酒食を準備しました。御府令は衣服を管理しており、太后の飲食は太官の管轄になります。ここで「衣食は御府の餘資を蒙っている」と言っているのは、大まかな表現です)。それなのにまだ不足していて必ず一県を得なければならないというのでしょうか。私の考えは固まっています。迷う必要はありません(吾計之孰矣,勿有疑也)
至孝の行とは、安親を上とするものです(親を安心させることを最上とするものです)。今はしばしば変異に遭遇し、穀価穀物の価格)が数倍になっているので、昼夜憂惶して(憂い恐れて)坐臥しても不安です。それなのにまず外家の封を営もう(封侯を実行しよう)と欲するのは、慈母の拳拳(勤恭、誠実な心)に違えています。私はかねてから剛急で、胸中の気があるので(原文「有匈中気」。「匈」は「胸」です。『資治通鑑』胡三省注は「上気之疾(気が逆流する病)」と解説しています)(あなたは)順わなければなりません。子は未冠(未成年)なら父母に従い、冠をして成人になってから、子(自分)の志を行うものです(子之未冠由於父母,已冠成人則行子之志)。帝(あなた)のことを念じると(あなたは)人君です(あなたは人君なので自分で決断するべきです)。しかし私はまだ三年(の喪)を越えていないことを考慮し、また、私の家族の事なので、これを専断しています(吾以未踰三年之故,自吾家族,故得専之)。もし陰陽が調和し、辺境が清静になったら、その後に子の志を行いなさい。そうなったら私はただ飴を舐めて孫と遊び(含飴弄孫)、再び政治に関与することはありません不能復関政矣)。」
章帝は馬氏の封侯をあきらめました。
 
 
 
次回に続きます。