東漢時代99 章帝(五) 第五倫 77年(2)

今回は東漢章帝建初二年の続きです。
 
[(続き)] 馬太后はかつて三輔に詔を発し、諸馬(馬氏)の婚親(親族縁戚)で郡県に属託(依託。私事を頼むこと)して吏治を干乱(干渉して乱すこと)する者がいたら法に則って報告させました(以法聞)
太夫太后の母)を埋葬した時も、墳墓がわずかに高かったため、太后がこれを指摘し、兄の衛尉馬廖等がすぐに減削しました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の列侯の墳墓は高さ四丈で、関内侯以下から庶人に至るまではそれぞれ差がありました。
 
外親外戚。馬氏の親戚)の中に、謙恭でかねてから義行がある者がいたら、いつも温かい言葉をかけて財位(財物官位)を賞として与えました。しかしもし纖介(些細な問題)があったら、まず厳恪な態度を見せてから譴責を加えました。
車服を華美にし、法度を遵守しない者に対しては、属籍外戚としての籍)を絶って田里に送り帰しました。
広平王劉羨、鉅鹿王劉恭、楽成王劉党(三人とも明帝の子ですが、馬太后は子がいなかったので、三子の実母ではありません。『後漢書孝明八王列伝(巻五十)』を見ても母の名が書かれていません。)は車騎が朴素(素朴)で金銀の飾りがなかったため、章帝が馬太后に報告し、それぞれに銭五百万を下賜しました。
このようだったので、内外が教化に従い、感化されて一つになりましたが(内外従化,被服如一)、諸家(諸外戚貴族)は永平の時(明帝時代)より倍も惶恐しました。
 
太后は織室(官署。織物の工房)を置き、濯龍の中で蚕を養いました。
資治通鑑』胡三省注によると、濯龍監は鉤盾令に属します。濯龍は園の名で、北宮の近くにありました。
太后はしばしば蚕を観察に行き、それを娯楽にしました。
 
また、馬太后はいつも章帝と朝から夜まで政事の道理について語り(言道政事)、小王(幼年で封国に赴いていない諸王)に『論語』等の経書を教授したり平生(生涯の経歴)について述べて、終日、雍和(和睦。打ち解けること)しました。
 
馬廖は馬太后の美業を貫徹させるのが困難であると考え、上書して徳政を完成させるように勧めました。上書の内容はこうです「昔、元帝は服官を廃し、成帝は浣衣を御し(洗った服を着て。古い服を何回も洗って着たという意味です)哀帝は楽府を去らせましたが、それでも侈費(奢侈な浪費)が止まず、衰乱に至らせることになったのは、百姓が行動に従って言に従わなかったからです(庶民が朝廷の貴人の行いを真似して朝廷の教えに従わなかったからです。原文「百姓従行不従言也」)。政治を改めて風俗を変えるには、必ず本(基本。根本)になることが必要です(夫改政移風必有其本)。『伝(詳細はわかりません)』にはこうあります『呉王が剣客を好み、百姓に創瘢(傷痕)が多い。楚王が細い腰を好み、宮中で多くが餓死する(呉王好剣客,百姓多創瘢。楚王好細腰,宮中多餓死)。』長安の語(諺)はこう言いました『城中が高結(高く結う髪型)を好めば四方(天下の髪)が一尺高くなる。城中が広眉(太い眉)を好めば四方がほぼ半額(額の半分の太さ)になる。城中が大袖を好めば四方が全て一匹の帛を使う(城中好高結,四方高一尺。城中好広眉,四方且半額。城中好大袖,四方全匹帛)。』この言は戯れのようなものですが、事実に密接しています(斯言如戲有切事実)。以前、制度を下しましたが、間もなくして(それらの制度が)徐々に行われなくなりました(前下制度未幾後稍不行)。あるいは吏が法を奉じていないのかもしれませんが、確かに京師から怠慢が起きています(良由慢起京師)。今、陛下(馬太后は素簡(質素倹約)に安んじており、それは聖性(聖人の本性)から発しています。もしこの事を徹底できれば(誠令斯事一竟)、四海が徳を歌い(四海誦徳)、声(名声)が天地を感化させ(声薰天地)、神明に通じることができるので、令を行うのはなおさらです政令を徹底させるのはなおさら容易なことです。原文「況於行令乎」)。」
太后は深く納得しました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
以前、安夷県(『資治通鑑』胡三省注によると、安夷県は金城郡に属します)の吏(官吏)が羌人・卑湳種(族)の婦人を奪って自分の妻にしたため、その夫が吏を殺しました。
この事件が原因で、安夷長(県長)宗延が犯人を追跡して塞を出ました。
種人(族人)は誅殺されることを恐れ、共に宗延を殺し、勒姐、吾良の二種(族)と結んで寇を為しました(挙兵しました)
資治通鑑』胡三省注によると、勒姐羌は勒姐溪に住んでいたため、地名を族名にしました。
 
焼当羌の豪(長)滇吾の子迷吾も諸種(諸族)を率いて共に反しました。
金城太守郝崇(『資治通鑑』胡三省注によると、殷帝(商帝)乙に期という子がおり、太原郝郷に封じられたため、その後代が郝を氏にしました)が討伐しましたが敗北します。
 
章帝が詔を発し、武威太守北地の人傅育を護羌校尉に任命して、安夷から臨羌に移動させました。
 
迷吾はまた封養種(族)の豪布橋等、五万余人と共に隴西、漢陽を侵しました。
漢陽は元天水郡です。明帝永平十七年74年)に改名されました。
 
秋八月、章帝が行車騎将軍(車騎将軍代理)馬防、長水校尉耿恭を派遣し、北軍五校兵および諸郡の射士(『資治通鑑』では「射士」ですが、『後漢書馬援列伝(巻二十四)』では「積射士」です。「積」は「跡」に通じ、「積射」は「探し求めて射る(尋跡而射之)」という意味です)三万人を率いて討伐させました。
資治通鑑』胡三省注によると、西漢武帝北軍八校を置きました。中塁、屯騎、越騎、長水、胡騎、射声、歩兵、虎賁です。光武帝の中興後、中塁、胡騎、虎賁を省きました。越騎、屯騎、歩兵、長水、射声の五校になります。屯騎、越騎、歩兵、射声はそれぞれ士七百人を指揮し、長水は烏桓の胡騎七百三十六人を指揮しました。全て宿衛の兵です。
 
第五倫が馬防の派遣に反対して上書しました「臣の愚見では、貴戚は封侯することで富ますことはできても、職事(職務)を任せるべきではありません。それはなぜでしょうか。法によって規制したら恩を傷つけ、親戚の関係によって私情をかけたら憲(法)に違えることになるからです(縄以法則傷恩,私以親則違憲。臣が伏して聞くに、馬防が今、西征に当たるとのことですが、太后には恩仁があり、陛下は至孝なので、突然、纖介(小さな過ち)があったら、意愛(情誼)を為すのが難しくなるのではないかと恐れます(親戚の情によって罰しなかったら法を廃すことになり、法を行ったら親戚の情誼を損なうことになります。原文「臣以太后恩仁,陛下至孝,恐卒有纖介,難為意愛」)。」
章帝は諫言に従いませんでした。
 
馬防等の軍が冀に至りました。
布橋等は臨洮で南部都尉を包囲します。
資治通鑑』胡三省注によると、隴西南部都尉が臨洮を治めていました。
 
馬防は進撃して布橋等を破り、四千余人を斬首したり捕虜にしました。臨洮の包囲が解かれます。
羌族はほとんど全て投降しましたが、布橋等二万余人だけは望曲谷に駐屯して降りませんでした。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
十二月戊寅(十六日)、孛星(彗星の一種)が紫宮(星座)に現れました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
章帝が竇勳(竇融の孫、竇穆の子。明帝永平五年62年参照)の娘を貴人にして後宮に入れました。竇貴人が寵愛を受けます。
竇貴人の母は東海恭王劉彊光武帝の子)の娘に当たる沘陽公主です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
第五倫が上書しました「光武は王莽の余(後。残り)を継承したので、多くの状況で厳猛によって政治を行い(頗以厳猛為政)、後代もこれに倣って(厳しい政治が)気風になりました(遂成風化)。郡国が挙げる人材は、多数が職務を処理するだけの俗吏の類で(類多辦職俗吏)、寛博の選(寛大な人材を選ぶこと)によって上(陛下)の要求に応じる者はほとんどいません(殊未有寛博之選以応上求者也)。陳留令劉豫と冠軍令駟協は共に刻薄(厳酷無情)の姿によって、務めて厳苦を為しているため、吏民で愁怨して憎まない者はいません(莫不疾之)。しかし今の議者は逆にそれを能としており(能力があるとみなしており)、天心に違えて経義を失っています。劉豫と駟協だけを坐に応じさせるのではなく(二人の罪を問うだけでなく。原文「非徒応坐豫協」)、挙者(劉豫、駟協を推挙した者)も譴責するべきです。仁賢を進めて時政を任せることに務めれば、数人を用いるだけで風俗が自ら変わるでしょう(風俗自化矣)。臣はかつて書記(書籍記録)を読み、秦は酷急(厳酷)によって国を亡ぼしたと知りました。また、王莽も苛法によって自滅したことをこの目で見ました。勤勤懇懇とする理由(恭敬慎重かつ懇切に上書する理由)はまさにここにあります(故勤勤懇懇,実在於此)。また、聞くところによると諸王、主(公主)、貴戚が驕奢で制度を越えている(踰制)とのことです。京師がこのようでは、どのようにして遠方に(模範を)示すのでしょうか。『その身が正しくなければ、令を発しても実行されない(原文「其身不正,雖令不行」。『論語』の言葉です)』と言われています。身をもって教えれば(人々が)従いますが、言をもって教えたら(人々が)是非について言い争うようになります(以身教者従,以言教者訟)。」
章帝は第五倫の意見を称賛しました。
 
第五倫は性格が峭直(厳峻剛正)でしたが、常に俗吏の苛刻な状況を嫌っており、論議はいつも寛厚(寛大敦厚)を原則にしていました。
 
 
 
次回に続きます。