東漢時代106 章帝(十二) 馬氏衰退 83年(1)

今回は東漢章帝建初八年です。二回に分けます。
 
東漢章帝建初八年
癸未 83
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月壬辰(二十九日)、東平王劉蒼(「献王」。または「憲王」。前年参照)が死にました。
章帝が詔を発して中傅に告げました「王の建武以来の章奏を封上(封をして提出すること)せよ。全て集めて閲覧する(並集覧焉)。」
また、大鴻臚に符節を持って葬儀を主管させ(持節監喪)、四姓小侯(樊、陰、郭、馬四姓の貴族)や諸国王(公主)に命じて全て葬儀に参加させました。
 
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉蒼の子劉忠が跡を継ぎました。劉忠の諡号は懐王です。
 
三月辛卯、東平憲王を埋葬し、鑾輅(帝王の車)や龍旂(龍旗)を下賜しました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
夏六月、北匈奴の三木楼訾大人稽留斯等(恐らく「三木楼訾」は地名です)が三万余人を率いて五原塞を訪ね、東漢に降りました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十二月甲午(初七日)、章帝が東に巡狩(巡行)して陳留、梁国、淮陽、潁陽を行幸しました。
戊申(二十一日)、皇宮に還りました。
 
[] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。
章帝が詔を発しました「五経を剖判(分析)したが、聖人から離れて彌遠(遥遠)になっており、章句・遺辞(先代から遺された文書)は乖疑(誤りや疑問)を正すのが難しく、先師の微言(神妙な言葉)が廃絶されることを恐れる。これは稽古(古事の研究)を重んじて道真(真の道理)を求める姿ではない。よって群儒に命じて高才生(高才の学生)を選ばせ、『左氏』『穀梁春秋』『古文尚書』『毛詩詩経』を受学(教授)することで、微学(衰微した学問)を助けて異義(新しい見解)を広く宣揚する(以扶微学,広異義焉)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
劉肇が太子に立った時、梁氏が秘かに慶祝しました(劉肇は梁竦の娘が実母ですが、竇皇后に育てられました)
それを聞いた諸竇(竇氏)は嫌悪しました。
竇皇后も外家(母の実家)の名を独占したいと思っていたため、梁貴人姉妹を嫌い、しばしば章帝に讒言して徐々に疎嫌(疎遠嫌厭)にさせました。
 
この年、竇氏が飛書(匿名の書)を作って梁竦を悪逆(謀反)の罪に陥れました。
梁竦は獄中で死に、家属は九真に遷されます。梁貴人姉妹は憂死しました。
更に辞語(供述)が梁松の妻舞陰公主光武帝の娘)に及び、舞陰公主は罪に坐して新城に遷されました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
順陽侯馬廖は慎重篤実な態度で自分を守りましたが(謹篤自守)、性格が寛緩(寛容・寛大)すぎたため、子弟を教勒(教導)することができず、皆、驕奢かつ放蕩になりました(驕奢不謹)
校書郎楊終が馬廖に書を送って戒め、こう言いました「君(あなた)は位地(官位地位)が尊重で、海内に嘱望されています。黄門郎(『資治通鑑』胡三省注によると、馬廖の弟馬防と馬光が黄門郎になりました)は年幼で血気が盛んなので、長君西漢文帝の皇后竇氏の兄です。西漢文帝前元年179年参照)の退譲の風がなく、軽狡無行の客(軽薄狡猾で素行が悪い賓客・友人と結んでいます。そのまま放置して教導せず(縦而莫誨)、任性(放縦な性格)が成るのを視ていたら、前往(前例)を覧念するに(前例を参考にして考慮すると)、心を寒くさせます(可為寒心)。」
馬廖は忠告に従えませんでした。
 
馬防と馬光の兄弟は資産が巨億を数えました。大規模な第観(邸宅楼観)を築いて街路に連ね(彌亙街路)食客は常に数百人もいます。
また、馬防は多数の馬を牧畜し(多牧馬畜)、羌胡人から税を徴収していました。
 
章帝は馬氏のこのような態度を喜ばず、しばしば譴敕(譴責)を加え、多くの禁遏(規制、制限)を設けました、そのため、馬氏の権勢は徐々に損なわれて賓客も衰えました。
 
馬廖の子馬豫が歩兵校尉になってから怨誹(朝廷に対する不満)の投書をしました。
そこで有司(官員)が馬防、馬光兄弟も併せて訴え、馬氏が奢侈で礼を越えていること(踰僭)、聖化(皇帝の教化)を濁乱していることを上奏しました。
馬氏は皆、罷免されて封国に送られることになります。
 
馬氏が雒陽を発つ時、章帝が詔を発して言いました「舅氏(母の兄弟)一門がそろって国の封に就くことになったが(俱就国封)、四時(四季)に陵廟で先后(馬太后の祭を助ける者がいなくなるので、朕は甚だ傷心している。よって許侯(馬光)に命じて田廬(田地と家屋。恐らく雒陽郊外、または陵園周辺の家です)で思諐(過ちを反省すること)させる。有司(官吏)が再び(馬光の帰国を)請う必要はない。こうして朕の渭陽の情を慰めることにする。」
馬光は馬防に較べたらまだ謹密(慎重細心)だったため、特別に雒陽に留められました。後に位を特進に復されます。
 
「渭陽之情」について『資治通鑑』胡三省注が解説しています。春秋時代、晋文公が即位前に秦に滞在しました。秦から晋に帰国する時、秦康公(秦穆公の子。当時は穆公の時代なので、康公も即位前です)が晋文公を渭陽まで送りました。晋文公は秦康公の母の兄弟に当たります。『詩経秦風渭陽』がこの時の事を歌っており、「私は舅氏(母の兄弟。晋文公)を送り、渭陽に至る(我送舅氏,曰至渭阳)」という句があります(「曰」は語気を表す字で、具体的な意味はありません)
ここから「渭陽之情」は「甥舅の情」を指すようになりました。
 
馬豫は馬廖に従って帰国し、拷問を受けて死にました(考撃物故)
馬廖は後に詔によって京師に呼び戻されました。
 
 
 
次回に続きます。