東漢時代112 章帝(十八) 行幸と祭祀 85年(2)

今回は東漢章帝元和二年の続きです。
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と資治通鑑』からです。
二月乙丑(十五日)、章帝が定陶で田地を耕しました。
章帝が詔を発しました「三老は尊年(高齢)である。孝悌は淑行(品行が優れていること)である。力田は勤労である。国家は甚だこれを美とする(甚休之)。よって一人当たりに帛一匹を下賜し、勉めて農功(農事)を率先させる(勉率農功)。」
 
章帝が使者を派遣して成陽霊台で唐堯(帝堯)を祀りました。
『粛宗孝章帝紀』の注によると、成陽県は済陰郡に属します。県の東南に堯の母慶都の墓があり、その上に祠廟がありました。堯母陵は俗名を霊台大母ともいいます。
 
辛未(二十一日)、章帝が泰山(郡)行幸し、岱宗(泰山)で柴告しました。「柴告」は柴を焚いて天を祭る儀式です。
三十羽の黄鵠が西南から飛んで来て、祠壇の上を通ってから、東北に向かって宮屋を越え、上空を飛翔しながら上下しました翔升降)
 
章帝が奉高(県名)に進みました。
 
壬申(二十二日)、章帝が汶上の明堂で五帝を宗祀(祭祀)しました。
資治通鑑』胡三省注によると、汶上の明堂は西漢武帝が建てました。
 
癸酉(二十三日)、章帝が二祖四宗に告祠(報告の祭祀)して内外の群臣を大集合させました(大会外内群臣)
『粛宗孝章帝紀』の注によると、二祖は西漢高祖(高帝)東漢世祖光武帝、四宗は西漢の太宗文帝、世宗武帝、中宗宣帝および東漢の顕宗明帝です。
 
丙子(二十六日)、章帝が詔を発しました「朕は岱宗を巡狩(巡行)して山川を柴望(柴告の祭祀)し、明堂で告祀(報告の祭祀)して先代の勲功を明らかにした(以章先勲)。二王の後(後代。『粛宗孝章帝紀』の注によると、漢代が指す二王は殷(商)周の王です)、先聖孔子の胤(後胤。襃成侯等を指します。下述します)、東后蕃衛(東方の諸侯)、伯父伯兄仲叔季弟幼子童孫(全て皇帝と同姓の諸侯です。伯父叔父、諸兄弟とその子孫です)、百僚従臣、宗室衆子、要荒四裔(要と荒は「二服」の名です。「要服」は王城から二千里離れた地域、「荒服」は王城から二千五百里離れた地域です。「四裔」は遠く離れた四方の地です)、沙漠の北、葱領の西(『粛宗孝章帝紀』の注によると、葱領は山の名で、敦煌の西に位置します)、冒耏の類(「冒耏」は髭が多い様子、髭ともみあげがつながった様子です。西域の人を指します)が懸度(『粛宗孝章帝紀』の注によると、「懸度」は石山で、陽関から五千八百五十里離れています)を乗り越え(跋渉懸度)、隔絶した地を越えて(陵践阻絶)、郊畤(天地神霊を祭る場所)に駆けつけて(駿奔郊畤)、皆が祭を助けに来た(咸来助祭。祖宗の功徳が延びて朕の身に及んでいる(延及朕躬)。予一人(朕。皇帝の自称)は空虚多疚(中身がなくて問題が多いこと)だが、尊明を纂承(継承)したので、身を清めて祭物を献上し、慚愧戦慄している盥洗享薦慙愧祗慄)。『詩(小雅節南山)』はこう言っているではないか『君子に賢才を用いるという福があれば、乱はすぐに止むだろう(君子如祉,乱庶遄已)。』歴数が既に従って(四分暦が既に施行されて)霊燿(天。日月)が明らかになったので(霊燿著明)、更に士大夫と同心自新(同心になって生まれ変わること)することを欲する。よって天下に大赦する。諸犯罪で赦しを得るべきではない者も全てこれ(刑)を除く。博奉高嬴は賦税を免除するので、今年の田租芻稾(飼料)を納める必要はない(復博奉高嬴,無出今年田租芻稾)。」
こうして大赦が行われました。
 
戊寅(二十八日)、章帝が済南に進みました。
 
三月己丑(初十日)、章帝が魯を行幸し、東海恭王陵(劉彊陵)を祀りました。
 
庚寅(十一日)、闕里孔子の住居)孔子および七十二の弟子を祀り、六代の楽を奏でました。
資治通鑑』胡三省注によると、黄帝の『雲門』、帝堯の『咸池』、帝舜の『大韶』、夏禹の『大夏』、商湯の『大護』、西周の『大武』が六代の楽です。

章帝が大会を開いて孔氏の男子で二十歳以上の者六十二人を集めました。
章帝が孔僖に言いました「今日の会は、卿の宗(家族。宗族)において光栄だったのではないか?」
孔僖が答えました「臣が聞くに、明王聖主には師を尊ばず道も貴ばない者はいないといいます。今、陛下は自ら万乗に屈し(自ら天子の車に乗って光臨し。原文「親屈万乗」)、敢えて敝里(私の故郷)に臨まれました(辱臨敝里)。これは先師孔子を指します)を崇礼して聖徳を増煇(拡大して輝かせること)することです。光栄に至っては、(臣が)得られることではありません(非所敢承)。」
章帝は大笑して「聖者の子孫でなかったら、どうしてこの言があっただろう」と言い、孔僖を郎中に任命しました。
 
章帝は襃成侯(褒成侯。孔子の子孫)と孔氏の男女(諸孔男女)に帛を下賜しました。
後漢書儒林列伝上(巻七十九上)』によると、当時の襃成侯は孔損といいます。
光武帝建武十四年38年)孔子の子孫孔志が襃成侯(褒成侯)に封じられました。『補後漢書年表(巻四)』によると、孔志の跡を継いだのが孔損です。
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
壬辰(十三日)、章帝が東平を行幸して献王(または「憲王」)劉蒼(明帝の弟)を追念しました。
章帝は劉蒼の諸子に「その人を思ってその郷に至った。その処(住居)はあるが、その人は亡い」と言い、涙で襟を濡らしました。
その後、章帝は献王陵(または「憲王陵」)行幸して太牢(牛豚各一頭を犠牲に使う祭祀の規格)で祀り、自ら祠坐(祠廟の牌位)を拝しました。哭泣して哀情を尽くします。
 
献王劉蒼は賢才を愛して士に対してもへりくだっていたため(愛賢下士、劉蒼が京師を離れて帰国した時(明帝永平四年61年)も、驃騎将軍府の吏丁牧と周栩は劉蒼から離れるのが忍びず、王家の大夫になりました。
その後、数十年が経ち、祖父(劉蒼)から孫の代になりましたが、二人は東平王に仕えていました(劉蒼は章帝建初八年83年に死に、子の懐王劉忠が継ぎました。その劉忠も章帝元和元年84年に死に、当時は劉蒼の孫に当たる孝王劉敞の代になっていました)
 
章帝は丁牧と周栩の事を聞いて二人とも引見しました。二人が下位に留まっていることを憐れみ(愍其淹滞)、また、献王の徳美を顕揚したいと思ったため、二人を議郎に抜擢しました。
 
甲午(十五日)、章帝が使者を送って定陶太后恭王陵を祀りました。
定陶太后西漢元帝の傅昭儀で、定陶恭王は劉康です。
 
乙未(十六日)、章帝が東阿を行幸してから北に向かって太行山を登り、天井関に至りました。
 
[] 『後漢書粛宗孝章帝紀』からです。
乙巳(『粛宗孝章帝紀』は「夏四月乙巳」としていますが、三月乙巳(二十六日)のはずです)、客星(彗星や新星)が紫宮に入りました。
 
[十一] 『後漢書粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月乙卯(初六日)、章帝が皇宮に還りました。
 
庚申(十一日)、章帝が祖禰(祖先と父の廟)に至り(原文「假于祖禰」。『資治通鑑』胡三省注によると、「假」は「至る」の意味です)、高廟で告祠(報告の祭祀)を行いました。
 
 
 
次回に続きます。