東漢時代123 和帝(二) 北匈奴遠征 89年(2)
今回は東漢和帝永元元年の続きです。
しかし郅寿は門生を詔獄(皇帝が管理する獄)に送り、前後して上書を行いました。竇憲の驕恣を訴え、王莽の前例を引用して国家(皇帝。朝廷)を戒めます。
怒った竇憲は、郅寿が公田を買い、朝廷を誹謗しているとして陥れました。
この件は官吏に下されて誅殺に当たるという判決が下されます。
何敞が上書して言いました「郅寿は機密の近臣で、匡救(大臣の過ちを正して救うこと)を職としているので、もし胸にしまって何も話さなかったら(懐黙不言)、その罪こそ誅殺に当たります。今回、郅寿は宗廟を安んじるために衆に違えて議を正しました。これがどうして私心によるものなのでしょうか(豈其私邪)。臣が死を冒して進言するのは(原文「觸死瞽言」。「瞽言」は物を知らないのに発言するという意味で、謙遜の言葉です)、郅寿のためではありません。忠臣が節を尽くしたら死を帰ることとみなすものです(以死為帰)。臣は郅寿を知らないとはいえ、想像するに心中で甘んじて(死刑を受け入れており)安らかでいるはずです(度其甘心安之)。誠に聖朝が誹謗の誅(誹謗された者に対する処刑)を行って晏晏の化(寛容和睦の教化)を傷つけることは欲していません。忠直を杜塞したら(塞いだら)、無窮に謗りを残すことになります(垂譏無窮)。臣敞は誤って機密に関与し(謬與機密)、発言が相応しくなく、罪名が明白なので、牢獄を満たすべきです(牢獄に入るべきです。原文「当填牢獄」)。郅寿より先に僵仆(体が倒れること。ここでは処刑されること)できたら、万死しても余りがあります。」
何敞の上書が提出されると、郅寿は死刑から減刑する判決が下され、合浦に遷されることになりました。しかし出発する前に自殺しました。
郅寿は郅惲の子です。郅惲は光武帝に仕えました。
夏六月、車騎将軍・竇憲と耿秉が朔方の雞鹿塞から、南単于が満夷谷から(『資治通鑑』胡三省注によると、南単于は西河美稷におり、満夷谷は美稷県の西北にありました)、度遼将軍・鄧鴻が稒陽塞(または「棝陽塞」。『資治通鑑』胡三省注によると、九原郡に属します)から出撃し、涿邪山で合流することになりました。
漢軍は北匈奴の諸部を追撃して私渠比鞮海(または「私渠北鞮海」「和渠北鞮海」)に臨み、名王以下、一万三千級を斬って多数の生口(捕虜)を獲ました。奪った雑畜も百余万頭を数え、諸裨小王で衆を率いて降った者は前後して八十一部、二十余万人に及びます。
竇憲と耿秉は塞を出て三千余里進み、燕然山に登りました。そこで中護軍(『後漢書・竇融列伝(巻二十三)』では「大将軍中護軍」です。『資治通鑑』胡三省注によると、西都(西漢)には護軍都尉がいました。中護軍の記述はここから始まります)・班固に命じて石碑に功績を刻ませ、漢の威徳を記録して還りました。
北単于は喜んで同意し、その衆を率いて梁諷と共に帰還しました。
しかし竇憲は単于が自ら来なかったため、上奏して入侍した弟を還らせました。
秋七月乙未(十一日)、会稽で山崩れがありました。
閏月丙子、詔を発しました(恐らく竇太后が発した詔です)「匈奴が背叛し、害を為して久遠になる。しかし祖宗の霊に頼り、師が克って勝報があった(師克有捷)。醜虜が破碎してその庭を掃き、役を再び挙げることがなくなり(役不再籍)、万里が清蕩(平静)になった。これは朕小子の眇身(小さな身)が克堪(任に堪えること)できることではない。有司(官員)は旧典に則り(其案旧典)、告類(天に報告する儀礼)して功を薦め(功を報告し)、そうすることで休烈(美烈。偉大な業績)を明らかにせよ(以章休烈)。」
九月庚申(初七日)、車騎将軍・竇憲を大将軍に、中郎将・劉尚を車騎将軍に任命しました。
また、竇憲を武陽侯に封じて食邑を二万戸にしました。
但し、旧制では、大将軍の位は三公の下でしたが、この時から詔によって竇憲の位が太傅の下、三公の上になりました。
大将軍の長史と司馬は秩中二千石になります。
『資治通鑑』胡三省注によると、太傅の位は上公に当たります。この時から竇憲も上公に位置することになりました。大将軍長史と司馬は秩千石でしたが、中二千石になりました。これは九卿と同等です。
耿秉を美陽侯に封じました。
次回に続きます。