東漢時代126 和帝(五) 北単于逃走 91年(1)

今回は東漢和帝永元三年です。二回に分けます。
 
東漢和帝永元三年
辛卯 91
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月甲子(十九日)、和帝が曹褒の新礼(章帝章和元年87年参照)を用いて元服しました(皇帝加元服
資治通鑑』胡三省注によると、正月甲子か丙子は吉日とされ、高祖廟で元服の儀式が行われました。
 
曹褒を抜擢して羽林左騎を監領させました(羽林左監に任命しました。原文「擢褒監羽林左騎」)
資治通鑑』胡三省注によると、羽林左監は光禄勳に属し、秩は六百石で、羽林左騎を主管します。
 
諸侯王将軍特進中二千石列侯宗室の子孫で、京師にいて奉朝請の者(春と秋の朝会に参加する権利がある者)に黄金を与え、将大夫郎吏従官に帛を与え、民に爵位と粟帛を与えてそれぞれ差がありました。
以下、『孝和孝殤帝紀』の注から解説します。
諸侯の中でも功徳が優盛で、朝廷で敬畏されている者が「特進」になりました。三公の下に位置します。
「奉朝請」には定員がなく、三公外戚宗室諸侯の多くが奉朝請の権利を持ちました。春の朝会を「朝」、秋の朝会を「請」といいます。
「将」は五官および左右の郎将を指します。
大夫は光禄太中中散諫議大夫です。
 
本文に戻ります。
五日間の大酺(全国で開く酒宴)を行いました。
郡国と中都官(京師の官)の繫囚(囚人)で、死罪の者は縑(絹の一種)を納めて贖させ、司寇までの刑および亡命(逃走)した者もそれぞれ差をつけて贖罪させました。
 
庚辰(甲子が十九日なので正月に庚辰はないはずです)、京師の民に酺(酒食)を与え、二戸ごとに一匹の布を下賜しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
北匈奴が微弱になったので、大将軍竇憲がこの機に北単于を滅ぼすことにしました(竇憲は涼州にいます)
二月、左校尉耿夔、司馬任尚を送って居延塞(『資治通鑑』胡三省注によると、張掖郡に属します)から出撃させました。
漢軍は金微山で北単于を包囲し、大破して単于の母である閼氏を捕えました。名王以下五千余級を斬ります。
単于は逃走して行方が分からなくなりました(原文「北単于逃走不知所在」。一説では「フン族」として西方に移動し、ヨーロッパの民族大移動を招いたともいわれています。但し、北匈奴が完全に消滅したわけではなく、一部は故地に留まりました)
 
漢軍は塞を出て五千余里進んでから帰還しました。これは漢が出師して以来、未だ至ったことのない距離です。
 
耿夔は粟邑侯に封じられました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
竇憲が大功を立ててから、威名がますます盛んになりました。竇憲は耿夔、任尚等を爪牙に、鄧疊、郭璜を心腹にし、班固、傅毅の徒が文章を担当します。
刺史令の多くがその門から出ており(竇氏に親しい者が推挙任命され)、彼等は吏民から税を徴収して共に賄賂を贈りました。
 
司徒袁安と司空任隗が二千石やそれに関連する者を挙奏(弾劾の上奏)したため、(竇氏に関係する)四十余人が秩禄を落とされたり免官されました。竇氏は大いに恨みましたが、袁安も任隗も素行が立派だったため、害されることはありませんでした。
 
尚書僕射楽恢は刺挙(検挙)に回避がなかったため(誰でも恐れず検挙したため)、竇憲等に憎まれました。
楽恢が上書しました「陛下は春秋に富んでおり(まだ若いという意味です)、大業を纂承(継承)しました。諸舅(母の兄弟)は王室に幹正(関与)して天下を私物と化していることを示すべきではありません(諸舅不宜幹正王室以示天下之私)。今為すべきは(方今之宜)、上は義によって自割し(自ら権力を割き)、下は謙によって自引することです(自ら隠退することです)。そうすれば四舅(竇憲、竇篤、竇景、竇瓌)が長く爵土の栄を保つことができ、皇太后も宗廟に対して慙負(慚愧)するという憂いが永くなくなります。これは誠に策の上者です(最上の策です)。」
上書が提出されましたが、受理されませんでした。
楽恢は病と称して引退を乞い(乞骸骨)、長陵に帰ります。『資治通鑑』胡三省注によると、楽恢は京兆長陵の人です。
 
しかし竇憲が州郡に強く示唆し(風厲州郡)、楽恢を脅迫して毒薬を飲ませて殺しました。
この事件は朝臣を震慴(震撼)させました。朝臣は竇憲の様子を窺ってその意思に従い(望風承旨)、敢えて抵抗する者がいなくなりました。
 
袁安は天子が幼弱で外戚が擅権しているため、朝会進見(謁見)の時も、公卿と国家の大事について語っている時も、悲痛して涙を流さないことがありませんでした(未嘗不喑嗚流涕)
天子から大臣に及ぶまで、皆が袁安を頼りにしました(皆恃頼之)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
夏六月辛卯、皇太后竇氏の母比陽公主(東海恭王劉彊の娘です)を尊んで長公主にいました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
辛丑、阜陵王劉种が死にました。
 
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』では、「劉种」ではなく「劉沖」と書かれています(和帝永元元年89年参照)諡号は殤王です。
劉沖には後嗣がいなかったため、阜陵王家が一時途絶えましたが、永元五年(九十三年)になって、和帝が劉沖の兄劉魴を改めて阜陵王に封じます。劉魴の諡号は頃王です(再述します)
 
 
 
次回に続きます。