東漢時代128 和帝(七) 丁鴻の上書 92年(1)
今回は東漢和帝永元四年です。三回に分けます。
東漢和帝永元四年
壬辰 92年
『孝和孝殤帝紀』は本年に「春正月、北匈奴の右谷蠡王・於除鞬が自立して単于になり、塞を訪ねて投降を乞うた。大将軍・左校尉・耿夔を送って璽綬を授けた」と書いていますが、於除鞬が辺塞を訪ねたのは昨年のはずです。
以前、廬江の人・周栄が袁安府(司徒府)に招かれて官職に就きました(周栄辟袁安府)。
そこで、徐齮が周栄を脅して言いました「子(汝)は袁公の腹心の謀(謀士)であり、竇氏を排奏したが(排斥する上奏をしたが)、竇氏の悍士(勇士)、刺客は城中を満たしている。謹んでこれに備えよ(謹備之矣)。」
周栄が言いました「栄(私)は江淮の孤生(孤陋の人。見識が狭い人)だったが、宰士(宰相の士。ここでは司徒府の官員を指します)に備わる(列する)ことができた。たとえ竇氏に害されることになったとしても、誠に甘心とするところである(甘んじて受け入れる)。」
周栄は妻子を戒めてこう言いました「もしも突然、飛禍(予期できない禍)に遭ったら、殯斂(棺に入れること。安葬)してはならない。区区とした腐身をもって朝廷を覚悟(覚醒)させることを望む(自分の死によって朝廷に誤ちを気づかせることを望む)。」
三月癸丑(十四日)、司徒・袁安が死にました。
閏月丁丑(閏三月初九日)、太常・丁鴻を司徒に任命しました。
夏四月丙辰(十八日)、大将軍・竇憲が京師に帰還しました。
六月戊戌朔、日食がありました。
丁鴻が上書しました「昔、諸呂が擅権したため、統嗣(皇統)が危うく移されることになりました(統嗣幾移)。哀・平の末(西漢哀帝・平帝の末年)には(外戚の専横のため)宗廟の祭祀がなくなりました(原文「廟不血食」。「血食」は祭祀の礼物を享受することです。「廟不血食」は宗廟の祭祀が途絶えたことを意味します)。よって、たとえ周公の親(西周成王と周公旦のような近親の関係。周公旦は成王の叔父です)があったとしても、その徳(周公のような徳)がなかったら、その勢(権勢)を行ってはならないのです。今、大将軍(竇憲)はその身を戒めて自分を制約しようと欲しており(欲敕身自約)、敢えて僭差(越権。度を越えること)していませんが、天下遠近の者が皆、怖れてその意思に順っています(惶怖承旨)。刺史や二千石が始めて任命されたら(初除)、(竇憲に)任官の挨拶に行き、面会を求めて回答を待っています(原文「謁辞求通待報」。「謁辞」は任官の挨拶をして別れを告げること、「求通」は姓名を告げて面会を求めること、「待報」は回答を待つことです)。たとえ符璽を奉じて台敕を授かっても(符璽は刺史や二千石の印です。任命された者は尚書台で敕(命令書)を受け取りました)、そのまま去ろうとせず(不敢便去)、(逗留が)久しい者は数十日に至り、王室に背を向けて私門を向いています。これは上威を損なって下権を盛んにすることです。人道が下で混乱したら天に影響が現れます(人道悖於下效験見於天)。たとえ隠れた謀でも、神はその情(実情)を照らし、象を垂らして(日食等の異変を起こして)戒めを見せることで人君に警告します(垂象見戒以告人君)。微細を禁じるのは容易ですが、末になってから救うのは困難です(禁微則易,救末則難)。微細を軽視して大禍を招かなかった人はいません(人莫不忽於微細以致其大)。恩(恩情。親族の情)があるために教導するのが忍びず(恩不忍誨)、義(義理)があるために割くのが忍びなかったら(義不忍割)、事が去った後に、未然の明鏡となります(外戚を教導せず、権勢を割かなかったら、禍が起きる前はそれが問題だと気づきませんが、禍が起きてから、明鏡に照らされたようにそれらが原因だったことが明らかになります。原文「恩不忍誨,義不忍割,去事之後,未然之明鏡也」)。天とは剛でなければならず、剛でなかったら三光(日月星)が不明になります(夫天不可以不剛,不剛則三光不明)。王は強でなければならず、強でなかったら宰牧(宰相・州牧。大臣官員)が縦横します(王不可以不強,不強則宰牧従横)。大変(日食等の天変)を機に政治を改めて過失を正し、そうすることで天意を塞ぐべきです(改政匡失以塞天意)。」
旱害と蝗害に襲われました。
次回に続きます。