東漢時代137 和帝(十六) 竇太后の死 97年(1)

今回は東漢和帝永元九年です。二回に分けます。
 
東漢和帝永元九年
丁酉 97
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
春正月、永昌徼外(界外)の蛮夷および撣国(または「擅国」)が訳(通訳)を重ねて奉貢に来ました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
春三月庚辰(初十日)、隴西で地震がありました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
癸巳(二十三日)、済南王劉康(安王)が死にました。
劉康は光武帝の子です。『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉康の在位年数は五十九年に及びます。子の簡王劉錯が継ぎました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』『後漢書西域伝(巻八十八)』と『資治通鑑』からです。
東漢が西域の将兵長史王林を派遣し、涼州六郡の兵と羌胡二万余人を動員して車師後王涿鞮(前年参照)を討伐させました。千余人の首を斬ったり捕虜にします。
涿鞮は北匈奴に入りましたが、漢軍が追撃してこれを斬りました。
東漢は涿鞮の弟農奇を王に立てました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月丁卯(二十八日)、楽成王劉党の子劉巡を楽成王に立てました。
 
前年、楽成王劉党(靖王)が死んで子の哀王劉崇が立ちましたが、哀王もすぐに死に、子がいなかったため国が除かれていました。
後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、今回改めて封王された劉巡は劉崇の兄で脩侯でした。諡号は釐王です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
五月、陰皇后の父である屯騎校尉陰綱を呉房侯に封じ、特進として家で待機させました(特進就第)
 
資治通鑑』胡三省注によると、呉房県は汝南郡に属し、棠谿亭があります。
「房」は楚霊王に滅ぼされた国です。「棠谿」は楚昭王が呉王夫槪を封じた地で、呉城がありました。「呉房」というのは呉城と房国を併せてできた県名のようです。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
六月、旱害と蝗害に襲われました。
 
戊辰、和帝が詔を発しました「今年の秋稼(秋の収穫)は蝗蟲に傷つけられたので、(被害が大きい者は)皆、租(田租)(更賦。兵役に代わる租税)芻稾(飼料)を徴収する必要がない。もし損失があるようなら、実情に合わせて(租を)除け(以実除之)。それ以外で租を収めるべき者(被害がなくて租を収めるべき者)は半数を入れることにする(余当收租者亦半入)。山林の饒利(利益)や池で獲れた魚の収穫(陂池漁採)、それらをもって元元(民衆)を救え(以贍元元)。假税(国の地を借りている者が納める税)を徴収してはならない(勿收假税)。」
 
秋七月、蝗蟲が京師を越えて飛んで行きました(飛過京師)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀と『資治通鑑』からです。
八月、鮮卑が肥如(地名)を侵しました。
遼東太守祭参が沮敗(敗北。挫折)の罪を問われ、獄に下されて死にました。
 
『孝和孝殤帝紀』の注によると、鮮卑の千余騎が肥如城を攻めて吏人を殺略したため、祭参が沮敗の罪に坐して獄に下され、誅されました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
閏月辛巳(中華書局『白話資治通鑑』は「閏八月十四日」としています)、皇太后竇氏が死にました。
 
梁貴人が死んでから(章帝建初八年83年)、宮省(宮中)の事が秘密にされたため、和帝が梁氏から生まれたことを知る者はいませんでした。
しかし竇太后が死んだため、舞陰公主の子梁扈が従兄を派遣して三府(太尉司徒司空)に奏記(書状を提出すること)しました「漢家の旧典(旧制)では母氏(母親、またはその家族)を崇貴(尊崇)するものです。しかし梁貴人は自ら聖躬(皇帝の体)を育てたのに、尊号を蒙っていません。申議(審理討議)を得ることを求めます。」
後漢書皇后紀上』と『後漢書梁統列伝(巻三十四)』によると、梁貴人は幼い頃に母を失い、伯母の舞陰長公主に養われました。舞陰公主は光武帝の娘で、梁松に嫁ぎました。梁扈は梁松の子です。
 
太尉張酺が和帝に報告すると、和帝は久しく感慟(感傷哀痛)してからこう言いました「君の意はどうだ(於君意若何)?」
張酺は遡って梁貴人に尊号を贈り、諸舅(梁貴人の兄弟)を探して皇族の籍に記録すること(存錄諸舅)を請いました。
和帝はこれに従います。
 
梁貴人の姉(または「梁憑」)南陽の人樊調に嫁ぎました。その梁が上書して訴えました「妾(私)の父竦は牢獄で冤死し、骸骨も埋められていません(骸骨不掩)。母氏(母)は年が七十を越え、弟の棠等に至っては遠く絶域にいて死生も分かりません。竦の朽骨を収め、母や弟が本郡(故郷の郡)に帰れることを願い乞います。」
 
和帝は梁を引見して梁貴人の枉歿(冤死)の状況を知りました。
三公が上奏しました「光武が呂太后を除いた故事に基き光武帝中元元年56年、光武帝が呂太后を高皇后の地位から降ろしました)、竇太后の尊号を落とすことを請います。先帝と合葬するべきではありません。」
百官も多くの者が上書しました。
 
和帝が手詔(自筆の詔)を発しました「竇氏は法度を遵守しなかったが、太后は常に自ら減損した(自身を節制した)。朕は太后に)奉事して十年になり(本年で即位して十年になります)、深く大義を思う。礼によるなら、臣子には尊上を貶める文(制度。道理)はない。恩においては(先帝から)離すのが忍びず、義によるなら(尊号を)損なうのが忍びない(恩不忍離,義不忍虧)。前世を考察すると、上官太后も降黜(降格排斥)がなかった西漢昭帝時代、上官桀の父子が誅殺されても上官后は連座しませんでした)。再び議論する必要はない(其勿復議)。」
 
丙申(二十九日)、和帝が竇氏を章徳皇后として埋葬しました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
焼唐羌(焼当羌)の迷唐が衆八千人を率いて隴西を侵しました。塞内の諸種羌を脅し、歩騎合わせて三万人が隴西兵を撃破して大夏大夏県長)を殺します。
 
和帝は詔を発して行征西将軍劉尚を派遣し、越騎校尉趙世を副(副将)にしました。
後漢書西羌伝(巻八十七)』では「趙世」を「趙代」としています。『後漢書孝和孝殤帝紀』では「趙世」です。『資治通鑑』胡三省注によると、『西羌伝』は唐太宗李世民の諱を避けて「世」を「代」に置き換えたようです。
 
劉尚等は漢兵と羌胡の兵合計三万人を率いて討伐しました。
劉尚は狄道に、趙世は枹罕に駐屯します。
 
劉尚は司馬寇盱に諸郡の兵を監督させ、四面から兵を集結させました。
懼れた迷唐は老弱を棄てて臨洮南(『資治通鑑』胡三省注によると、臨洮南山です)に逃走します。
劉尚等は追撃して高山に到り、羌軍を大破して千余人を斬虜しました。
迷唐が退却しましたが、漢兵の死傷も多かったため、これ以上の追撃はできず撤兵しました。
 
 
 
次回に続きます。