東漢時代142 和帝(二十一) 陰皇后廃位 102年(1)

今回は東漢和帝永元十四年です。三回に分けます。
 
東漢和帝永元十四年
壬寅 102
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
春二月乙卯、東海王劉政が死にました。
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉政の諡号は靖王です。子の頃王劉粛が継ぎました(明帝永平元年58年参照)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
春、安定の降羌焼何種(焼何族)が叛しましたが、郡兵が撃滅しました。
焼何と焼当は別の種族です。
 
当時は西海から大小楡谷の左右(周辺)にかけて羌族の侵犯がなくなりました。
そこで隃麋相(『資治通鑑』胡三省注によると「隃麋」は侯国で右扶風に属します)曹鳳が上書しました「建武以来、西羌で法を犯す者は常に焼当種から起きました。その理由は、彼等が住んでいた大小楡谷は土地が肥美(肥沃)で西海の魚塩の利もあり(『資治通鑑』胡三省注によると、西海には允谷塩池がありました)、大河に阻まれて堅固な守りとしていたからです。また、近塞の諸種東漢国境付近の諸族)が容易に非(乱)を為し(易以為非)、攻伐が難しかったので、(焼当羌は)強大になることができ、常に諸種の雄としてその拳勇(勢力、武力)を後ろ盾とし(常雄諸種恃其拳勇)、羌胡を招誘したのです。しかし最近は衰困して党援も壊沮(壊滅し)し、逃げ隠れして遠くの発羌を頼っています(亡逃棲竄遠依発羌)。臣の愚見によるなら、今この時に及んで西海の郡県を建復(再建)し、二楡を規固(区域を決めて制御すること)して広く屯田を設け、羌胡の交関の路を隔塞(隔絶)し、狂狡窺欲の源を遏絶(根絶)するべきです。また、穀物を育てて辺境を富ませ(殖穀富辺)、輸送の労役を省けば(省委輸之役)、国家が西方の憂を無くすことができます。」
 
西海郡は西漢平帝時代に設けられましたが(平帝元始四年4年参照)、『孝和孝殤帝紀』の注によると、光武帝建武年間に西海郡を除いて金城を隴西郡に編入しました。
 
和帝は曹鳳の意見に従いました。
旧西海郡を繕脩(修築、修繕)し、金城西部都尉を遷して守らせることにします。
 
和帝は曹鳳を金城西部都尉に任命して龍耆(または「龍支」)に駐屯させました。
後には開墾面積を増大し、黄河を挟んで合計三十四部の屯田が行われるようになります。しかし屯田の功が成就しようとした安帝永初年間になって諸羌が叛したため、廃止されました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月戊辰(二十七日)、和帝が辟雍(学校)に臨んで饗射の礼(射術を競う儀式)を行い、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、朝廷が使者を派遣して荊州兵一万余人を監督させ、道を分けて巫蛮許聖(前年参照)等を討伐させました。
荊州兵が許聖等を大破します。
許聖等は投降を乞い、全て江夏に遷されました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、晋南北朝時代荊州蛮で沔中西陽(地名)に分居していた者は巫蛮の余種(残った種族)です。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
庚辰、張掖・居延・敦煌・五原・漢陽・会稽の流民と下貧(貧困)を賑貸(救済)し、それぞれ差をつけて穀物を与えました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
五月丁未、始めて象林に将兵長史の官を置きました。
『孝和孝殤帝紀』の注によると、将兵長史は日南郡に置かれました。象林県は日南郡に属します。長史の他に将兵司馬もいました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
陰皇后は妬忌(嫉妬)が多く、和帝の寵遇(寵愛)がしだいに衰えてからしばしば恚恨(怨恨)を抱くようになりました。
 
当時、皇后の外祖母(母側の祖母)鄧朱が宮掖後宮に出入りしていました。
ある人が和帝に「后(皇后)と鄧朱が共に巫蠱の道に頼っています(挾巫蠱道)」と言ったため、和帝は中常侍張慎と尚書陳褒に調査させました。その結果、大逆無道(不道)として弾劾されます。
鄧朱の二子に当たる奉と毅(姓はわかりません。中華書局『白話資治通鑑』は「鄧奉と鄧毅」としていますが、鄧は母の姓なので奉と毅の姓ではないはずです。通常、子は父の姓を名乗ります)および皇后の弟陰輔が獄中で拷問に遭って死にました(考死獄中)
 
六月辛卯(二十二日)、陰皇后が罪に坐して廃されました。桐宮に遷されて憂死します。
父の特進陰綱は自殺し、陰皇后の弟陰軼と陰敞および鄧朱の家属は日南郡比景に遷されました。
資治通鑑』胡三省注によると、日南郡は秦代の象郡で、西漢武帝によって改名されました。比景県は日南に属す県です。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
秋七月甲寅、和帝が詔を発して象林県の更賦(兵役の代わりに納める税)、田租、芻稾(飼料)を二年間を免除しました(復象林県更賦、田租、芻稾二歳)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
壬子(十三日)、常山王劉側(殤王)が死にました。
劉側は淮陽頃王劉昞の子で、劉昞は明帝の子です(章帝章和元年87年参照)
 
劉側に子がいなかったため、兄の房子侯劉章が常山王に立てられました。
資治通鑑』胡三省注によると、房子は常山国に属します。
 
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
この秋、三つの州で大水(洪水)がありました。
 
 
 
次回に続きます。