東漢時代142 和帝(二十一) 陰皇后廃位 102年(1)
今回は東漢和帝永元十四年です。三回に分けます。
東漢和帝永元十四年
壬寅 102年
春二月乙卯、東海王・劉政が死にました。
春、安定の降羌・焼何種(焼何族)が叛しましたが、郡兵が撃滅しました。
焼何と焼当は別の種族です。
そこで隃麋相(『資治通鑑』胡三省注によると「隃麋」は侯国で右扶風に属します)・曹鳳が上書しました「建武以来、西羌で法を犯す者は常に焼当種から起きました。その理由は、彼等が住んでいた大・小楡谷は土地が肥美(肥沃)で西海の魚塩の利もあり(『資治通鑑』胡三省注によると、西海には允谷塩池がありました)、大河に阻まれて堅固な守りとしていたからです。また、近塞の諸種(東漢国境付近の諸族)が容易に非(乱)を為し(易以為非)、攻伐が難しかったので、(焼当羌は)強大になることができ、常に諸種の雄としてその拳勇(勢力、武力)を後ろ盾とし(常雄諸種恃其拳勇)、羌・胡を招誘したのです。しかし最近は衰困して党援も壊沮(壊滅し)し、逃げ隠れして遠くの発羌を頼っています(亡逃棲竄遠依発羌)。臣の愚見によるなら、今この時に及んで西海の郡県を建復(再建)し、二楡を規固(区域を決めて制御すること)して広く屯田を設け、羌・胡の交関の路を隔塞(隔絶)し、狂狡窺欲の源を遏絶(根絶)するべきです。また、穀物を育てて辺境を富ませ(殖穀富辺)、輸送の労役を省けば(省委輸之役)、国家が西方の憂を無くすことができます。」
和帝は曹鳳の意見に従いました。
旧西海郡を繕脩(修築、修繕)し、金城西部都尉を遷して守らせることにします。
和帝は曹鳳を金城西部都尉に任命して龍耆(または「龍支」)に駐屯させました。
荊州兵が許聖等を大破します。
許聖等は投降を乞い、全て江夏に遷されました。
五月丁未、始めて象林に将兵長史の官を置きました。
鄧朱の二子に当たる奉と毅(姓はわかりません。中華書局『白話資治通鑑』は「鄧奉と鄧毅」としていますが、鄧は母の姓なので奉と毅の姓ではないはずです。通常、子は父の姓を名乗ります)および皇后の弟・陰輔が獄中で拷問に遭って死にました(考死獄中)。
六月辛卯(二十二日)、陰皇后が罪に坐して廃されました。桐宮に遷されて憂死します。
父の特進・陰綱は自殺し、陰皇后の弟・陰軼と陰敞および鄧朱の家属は日南郡比景に遷されました。
秋七月甲寅、和帝が詔を発して象林県の更賦(兵役の代わりに納める税)、田租、芻稾(飼料)を二年間を免除しました(復象林県更賦、田租、芻稾二歳)。
壬子(十三日)、常山王・劉側(殤王)が死にました。
劉側は淮陽頃王・劉昞の子で、劉昞は明帝の子です(章帝章和元年・87年参照)。
劉側に子がいなかったため、兄の房子侯・劉章が常山王に立てられました。
『資治通鑑』胡三省注によると、房子は常山国に属します。
この秋、三つの州で大水(洪水)がありました。
次回に続きます。