東漢時代144 和帝(二十三) 鄧皇后 102年(3)

今回で東漢和帝永元十四年が終わります。
 
[十三] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
以前、太傅鄧禹が人にこう言いました「私は百万の衆を指揮したが、未だ一人も妄りに殺したことがない。後世、必ず興隆する者がいるはずだ(後世必有興者)。」
 
鄧禹の子護羌校尉鄧訓には鄧綏という娘がいました。性格が孝友(孝行友愛)で、書伝を好み、常に昼は婦業を修めて暮(夜)には経典を朗読したため、家人が「諸生」と号しました。
 
叔父の鄧陔が言いました「かつて『千人を活かした者は子孫に封(封侯)がある』と聞いた。兄の鄧訓が謁者になった時、命を受けて石臼河を修築し(章帝建初三年78年参照)、一年で数千人を活かした(使修石臼河,歳活数千人)。天道とは信用できるものだ。我が家は必ず福を蒙るだろう。」
 
後に鄧綏が選ばれて入宮し、貴人になりました。恭粛小心(謙虚慎重)で行動に法度があり、陰后に仕えました。他の妃嬪と接する時は、常に自分を制して人の下になります。
宮人や隸役(奴僕)にも皆に恩借(恩恵と寛恕)を加えたため、和帝に深く嘉されました。
 
鄧綏がかつて病を患った時、和帝が特別に鄧綏の母や兄弟に命じて入宮させ、日数を制限することなく看病させようとしました(親医薬)
しかし鄧貴人は辞退してこう言いました「宮禁は至重なのに(皇宮の禁制は最も重要なのに)、外舍(外家。妻の親族)を久しく内省(内禁。宮中)に居させたら、上は陛下に私幸の譏(寵愛している者を特別扱いしているという批難)をもたらし、下は賎妾()に不知足の謗(満足を知らないという批難)を獲させ、上下が共に損なわれることになるので、誠にそれを願いません(上下交損,誠不願也)。」
和帝が言いました「人は皆、しばしば入宮することを栄(栄誉)とするが、貴人は逆に憂いとするのか。」
 
宮中で讌会(宴会)がある度に諸姫は競って自分を飾りましたが、鄧貴人だけは質素を尊び、もしも衣服が陰后と同じ色だったら、すぐに脱いで着替えました。
同時に進見(謁見)することになっても、並んで座ることも立つこともなく(原文「不敢正坐離立」。「正坐離立」は恐らく「離坐離立」です。『資治通鑑』胡三省注によると、「離」は「並」の意味です)、歩く時は身を伏して自分を低くし(行則僂身自卑)、帝が質問することがあっても、常に逡巡して後から答え、敢えて皇后より先には発言しませんでした。
 
陰后は体が小さかったため、時々、挙指(挙止。行動)に儀を失うことがありました(礼儀に合わないことがありました)。それを見て左右の者達は口を覆って笑いましたが、鄧貴人だけは悲傷して楽しまず、皇后の過ちを隠して自分が失敗した時のように振る舞いました(愴然不楽為之隠諱若己之失)
和帝は鄧貴人が敢えて心を労して腰を低くしている(労心曲体)と知り、嘆息して言いました「(鄧氏の)修徳の労はこのようであるのか修徳之労乃如是乎)。」
 
後に陰后の寵愛が衰えると、鄧貴人は御見(進見。召見。御幸)に当たる度に病と称して辞退しました。
当時、和帝が皇子を何人も失ったため、鄧貴人は継嗣が広くないこと(後継者が豊富ではないこと)を憂い、頻繁に才人を選んで進め、広く和帝の意(歓心)を得ました(以博帝意)
資治通鑑』胡三省注は「西漢の宮中の爵号には美人、良人があった。才人というのは東都東漢が置いたのだろう」と解説しています。しかし東漢後宮の爵号は、皇后の下に貴人、美人、宮人、采女の四等があっただけだと思われます光武帝建武二年26年参照)
この「才人」は爵号ではなく、優秀な女性という意味かもしれません。
 
陰后は鄧貴人の徳称(賢徳の名声)が日に日に盛んになるのを見て、深く嫉妬しました(深疾之)
ある時、和帝が寝病(病臥)して非常に危険な状態になると、陰后が秘かに言いました「私が意を得たら(皇帝が死んで陰皇后が皇太后になったら)、鄧氏には再び遺類(子孫)をいなくさせよう(我得意不令鄧氏復有遺類)。」
これを聞いた鄧貴人は涙を流して言いました「私は誠心を尽くして皇后に仕えてきたのに、助けを得られません(我竭誠尽心以事皇后竟不為所祐)。今、私は従死(殉死)して、上は帝の恩に報い、中は宗族の禍を解き、下は陰氏に人豕の譏(謗り)をもたらさないようにします。」
「人豕」は「人彘」です。呂太后が戚夫人を惨殺した事件を指します西漢恵帝元年194年参照)
 
鄧貴人が薬()を飲もうとしました。
しかし宮人の趙玉という者が強く止めて「ちょうど使者が来ました(属有使来)。上(陛下)の疾(病)は既に治癒しました」と偽りました。
鄧貴人は薬を飲むのを止めます。
翌日、和帝の病が本当に治りました。
 
陰后が廃された時も鄧貴人は陰后を助けようとして請願しましたが、聞き入れられませんでした。
和帝は鄧貴人を皇后に立てたいと思いましたが、鄧貴人はますます謙虚になり、病が重いと称して門を閉ざしました(深自閉絶)
 
十月辛卯(二十四日)、和帝が詔を発して貴人鄧氏を皇后に立てました。
鄧氏は辞退謙譲しましたが、やむなく位に即きました。
 
鄧皇后は郡国の貢献を全て禁絶させ(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の郡国による貢献は進御(皇帝に献上すること)の他に皇后宮にも献上されました)、歳時(四季)に紙墨を提供させるだけとしました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、後漢東漢蔡倫が魚網や木皮を使って紙を造ったため、一般には蔡倫によって紙の製造が始まったとされています。但し、『前書漢書外戚伝』には既に「赫蹏紙(字を書くための絹帛。または繊維で作った薄い紙)」の記述があります。
 
和帝が鄧氏に官爵を与えようとしても、鄧后がいつも哀請謙譲したため、兄の鄧騭(または「鄧陟」)も和帝が生きている間は虎賁中郎将にしかなりませんでした。
 
[十四] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
丁酉(三十日)、司空巣堪が罷免されました。
十一月癸卯(初六日)、大司農沛国の人徐防を司空にしました。
 
徐防が上書しました「漢は博士十四家を立て、甲乙の科を設けて学者を勉勧(奨励)しました(『資治通鑑』胡三省注によると、光武帝が中興してから広く古事を考察して十四博士を置きました。『易』は施氏(施讎)孟氏(孟喜)梁丘賀京房、『書』は歐陽和伯夏侯勝夏侯建、『詩』は申公(申培)轅固韓嬰、『春秋』は厳彭祖と顔安楽、『礼記』は戴徳と戴聖です。また、博士弟子は毎年試験を行い、甲科四十人を郎中に、乙科二十人を太子舍人に、丙科四十人を文学掌故(郡国の文官)にしました。「甲乙の科」は甲乙丙の等級を指します)。しかし伏して太学が博士弟子を試す様子を見ると、皆、それぞれの意見によって説き、家法(学派の教え)を修めず(皆以意説,不修家法)、勝手に互いを(他の学説を)容認庇護して、姦邪の道を生み開いています(私相容隠開生姦路)。そのためいつも策試(試験)の度に諍訟(言い争い)が興り、論議が紛錯(紛糾)して互いに反駁しています(互相是非)孔子はこう称しました『述して作らず(原文「述而不作」。先聖の言を述べるだけで自分では創作改変しないという意味です)。』またこうとも言いました『私はまだ史書の欠文を見ることがあった(原文「吾猶及史之闕文」。『資治通鑑』胡三省注によると、古の史官は分からないことがあるとその部分を欠文にして、後世の能力がある人に譲りました。孔子は若い頃、古の史官による欠文を見たことがありましたが、後にはそれがなくなったので、当時の人々が穿鑿(こじつけ)によって創作したことを憂いました)。』今は章句に則らず、妄りに穿鑿を生み、遵師(師の教えを守ること)を非義(道理がないこと)とみなし、意説(自分の意見、創意によって説くこと)を得理(理を得ていること)とみなし、道術(経典の道理に関する学術)への軽侮(軽視)がしだいに俗となっています(浸以成俗)。誠に詔書によって実選(選抜)している本意ではありません。軽薄を改めて忠に従うのは(改薄従忠)三代夏商周の常道です。誠心誠意、根本に勤めるのは、儒学者が優先させるべきことです(専精務本儒学所先)。臣が思うに、博士および甲乙の策試は、その家の章句に従い、五十難(五十の質問)を開いてこれを試し、解釈が多い者は上策と為し、引文(引用)が明確な者は高説(優秀)と為すべきです。もしも先師に基かず、義(道理。理論)に相伐(衝突。矛盾)があったら、全て非(錯誤)とみなして正すべきです(皆正以為非)。」
和帝はこの意見に従いました。
 
和帝永元十一年99年)に魯丕も「経を説く者は先師の言を伝えるものであり、(学説は)自分から出るのではなく、譲ってはならないものです(非従己出不得相讓)」と発言しました。
今回の徐防の進言と共通しています。
 
[十五] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
この年、再び郡国の上計に郎官を補わせました。
「上計」は年末に郡国の状況を報告するために上京する官吏です。『孝和孝殤帝紀』の注によると、西漢武帝が郡国に命じて孝廉を各一人挙げさせ、推挙された者は上計と共に入京して郎中に任命されました。
この制度は途中で廃されていましたが、今回、再開することになりました。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
大長秋鄭衆を郷侯に封じました。
竇憲を誅殺した功に報いるためです。
資治通鑑』胡三省注は「宦官の封侯はここから始まる」と解説しています。
 
 
 
次回に続きます。