東漢時代151 安帝(一) 魯恭 107年(1)

今回から東漢安帝の時代です。
 
恭宗孝安皇帝
劉祜といいます。粛宗章帝の孫で、父は清河孝王劉慶、実母は左姫です。
 
以下、『後漢書孝安帝紀』からです。
劉祜が邸第(邸宅)にいた時(即位前の事です)、しばしば神光が部屋を照らしました。また、赤蛇が牀笫の間(寝床が置かれた部屋。または寝床の隙間。原文「牀笫之閒」)でとぐろを巻きました。
十歳で『史書(『孝安帝紀』の注によると、この『史書』は西周宣王の太史籀が著した童幼を教育する書で、五十五篇ありました)』を好んで学び、和帝に称賛されて何回も禁中に引見されました。
殤帝延平元年106年)、父の劉慶が封国に就きましたが、劉祜は清河邸(雒陽)に留められました。
八月、殤帝が死に、劉祜が十三歳で即位しました。これが安帝です。鄧太后が引き続き政治を行いました太后猶臨朝)
延平元年の出来事は既に書いたので、再述は避けます。
 
 
東漢安帝永初元年
丁未 107
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月癸酉朔、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
蜀郡徼外(界外)羌族が内属しました。
 
『孝安帝紀』の注によると、徼外の羌龍橋等六種(六族)が義を慕って投降しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
戊寅(初六日)、犍為南部を分けて属国都尉を置きました。
後漢書郡国志五』によると、犍為郡南部都尉を属国都尉に改めて朱提と漢陽の二城(二県)を監督させました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
司隷、兗、豫、徐、冀、并州の貧民に食糧を与えて救済しました。
 
二月丙午(初四日)、広成(『孝安帝紀』の注によると汝州西の「広城苑」を指します)の游猟の地および災害を被った郡国の公田を貧民に貸し与えました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
二月丁卯(二十五日)、清河国を分けて安帝の弟劉常保を広川王に封じました。
当時の清河王は孝王・劉慶の子愍王・劉虎威です。劉慶は安帝の父で、章帝の子です。劉常保の諡号は分かりません。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
庚午(二十八日)、司徒梁鮪が死にました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月癸酉(初二日)、日食がありました。
 
(鄧太后が)公卿や内外の衆官、郡国の守相に詔を発し、賢良方正で道術(学術。治国の術)がある士、政術に明るく、古今に精通し、直言極諫できる者をそれぞれ一人挙げさせました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
己卯(初八日)、永昌徼外(界外)に住む僥種夷僥族)の陸類等が族人を挙げて内附し、貢物を献上しました。
資治通鑑』胡三省注によると、永昌郡は雒陽の西七千二百六十里に位置します。
僥国の人は身長が二尺にも満たなかったといいます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
甲申(十三日)、前年死んだ清河孝王劉慶を広丘に埋葬しました。
司空、宗正が喪事を監督し、儀礼は東海恭王劉彊光武帝の元太子で明帝の異母兄)と同等にしました。
 
後漢書孝安帝紀によると、劉慶を埋葬する際、龍旗と虎賁(勇士)を下賜しました。
尚、『孝安帝紀』は前年に「車騎将軍鄧隲に喪事を監督させた(車騎将軍鄧隲護葬事)」と書いていますが、『後漢書章帝八王伝(巻五十五)』はこう書いています「(太后)司空を派遣し、符節を持って宗正と共に弔祭を奉じさせた(弔問、追悼させた。葬礼を担当させた)。また、長楽謁者僕射と中謁者の二人に喪事を副護(補佐)させた。龍旂九旒(龍旗九本。または「九旒」は旗につける九本の帯状の飾りです)と虎賁百人を下賜し、儀礼を東海恭王と同等にした。」
資治通鑑』は『孝安帝紀』の「鄧隲が葬事を監督した(鄧隲護葬事)」という記述を採用せず、『章帝八王伝』を元に「司空、宗正が喪事を監督した(司空、宗正護喪事)」と書いています(胡三省注参照)
 
[] 『資治通鑑』からです。
和帝の喪があってから、鄧騭兄弟は常に禁中に住んでいました。
鄧騭は久しく禁中にいることを願わず、繰り返し帰宅を請い、鄧太后に許されました。
 
夏四月、太傅張禹、太尉徐防、司空尹勤、車騎将軍鄧騭、城門校尉鄧悝、虎賁中郎将鄧弘、黄門郎鄧閶を全て列侯に封じました。食邑はそれぞれ万戸で、鄧騭は安策の功(安帝を擁立した功績)によって三千戸を増やされました。
資治通鑑』胡三省注によると、張禹は安郷侯に、徐防は龍郷侯に、鄧騭は上蔡侯に、鄧悝は葉侯に、鄧弘は西平侯、鄧閶は西華侯に封じられました。
袁宏の『後漢紀』は「鄧閶」を「鄧闓」と書いている個所もありますが、胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「鄧闓」を誤りとしています。
 
鄧騭と諸弟(鄧悝鄧弘鄧閶)は封侯を辞退しましたが、聞き入れられなかったため、朝廷の使者を避けて間関(小路。回り道)から宮闕を訪ねました。上書陳述が五六回に及びます。
太后はやっと封侯の辞退に同意しました。
 
[十一] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月甲戌(初三日)、長楽衛尉魯恭を司徒に任命しました。
『孝安帝紀』の注によると、衛尉は秦から踏襲した官で、宮門の衛屯兵を管理します。長楽宮、建章宮、甘泉宮等、管轄した場所が官名につけられました。秩は中二千石です。
 
魯恭が上書しました「旧制では立秋になってから薄刑(軽刑)を行っていましたが、永元十五年103年)以来、孟夏(四月)に改められました(改用孟夏)。そのため、刺史太守が盛夏に農民を徵召し、拘対考験(逮捕訊問)して連滞が止まず(訊問が繰り返されて判決が下されず)、上は時気に逆らい、下は農業を傷つけています。『月令』によるなら、『孟夏に薄刑を断じる(孟夏断薄刑)』というのは軽罪で既に正された者(判決が下された者)が対象であり(謂其軽罪已正)、久しく(牢に)繋がせることを願わないので、即時これを断じたのです(即時、断罪処罰したのです。原文「不欲令久繫故時断之也」)。臣の愚見によるなら、今の孟夏の制はこの令(『月令』)に従うことができますが(既に判決が下された軽罪に対しては『月令』に従って処罰を行うことができますが)、決獄案考(裁判判決)は全て立秋に断じるべきです(すぐに判決が下せない裁判は立秋になってから始めるべきです)。」
 
魯恭がまた上奏しました「孝章皇帝は三正の微を助けることを欲し(章帝元和二年85年参照)、律を定めて令を著し、断獄を全て冬至冬至は旧暦十一月にあります)の前にしました。そのため小吏で国と心を同じくしない者は、多くが十一月に死罪の賊を得ると、冬至前に処罰を下すため)曲直(是非)を問うことなくすぐに格殺(処刑)しており、たとえ疑罪があっても二度と讞正(審議)しません。大辟の科(死刑の判決)は冬月(十一月)が尽きてから断じさせるべきです(死刑の判決は十一月末まで延長するべきです。原文「可令大辟之科尽冬月乃断」)。」
朝廷は魯恭の意見に全て従いました。
 
[十二] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
丁丑(初六日)(鄧太后が)詔を発して北海王劉睦(敬王)の孫寿光侯劉普を北海王に封じました。劉普の諡号は頃王です(和帝永元八年96年参照)
 
[十三] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
九真徼外(界外)夜郎蛮夷が土地を挙げて内属しました。
 
[十四] 『後漢書孝安帝紀』からです。
六月戊申(初八日)、皇太后(鄧氏)の母陰氏に新野君の爵位を与えました。
 
[十五] 『後漢書孝安帝紀』からです。
丁巳(十七日)、河東で地面が陥没しました。
 
[十六] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
西域都護段禧等は亀茲を確保しましたが(前年)、道路が隔塞(隔絶)しており、檄書を伝送できませんでした。
 
公卿の議者はこう考えました「西域は阻遠(険阻遥遠)でしばしば背叛しており、吏士が屯田しているが費用に際限がない(其費無已)。」
 
六月壬戌(二十二日)東漢が西域都護を廃し、騎都尉王弘を派遣して関中の兵を動員させ、段禧と梁慬、趙博および伊吾盧、柳中の屯田の吏士を迎えて帰還させました。



次回に続きます。