東漢時代152 安帝(二) 羌族離反 107年(2)

今回は永初元年の続きです。
 
[十七] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
以前、焼当羌の豪東号の子麻奴が父に従って東漢に降り、安定に居住しました(東号は和帝永元元年89年に帰順しました)
 
安帝が即位した頃は、投降した諸羌族が各郡県に分布しており、皆、漢人の吏民豪右(豪族)によって傜役を課され、愁怨(憂愁怨恨)を積もらせていました。
王弘が西行して段禧を迎え入れることになった時、金城、隴西、漢陽(漢陽は元天水郡で、明帝永平十七年・74年に改名されました)の羌人数百千騎を徴発して同行させました。郡県が急いで人々を動員して西方に向かわせます。
しかし群羌は遠い地に駐屯して還れなくなることを懼れたため、酒泉まで来ると多くが散叛(離散背反)しました。
これに対して諸郡はそれぞれ兵を発して邀遮(邀撃遮断)し、ある者は廬落羌族の集落)を滅ぼしました(或覆其廬落)
そのため、勒姐や当煎の大豪東岸等がますます恐れ驚き、同時に奔潰(逃走)しました。
麻奴兄弟はこれを機に種人(族人)と共に塞を出て西に向かいました。
先零種羌(先零羌)の滇零(羌人の名です)と鍾羌諸種(諸族)が隴道を断って大いに寇掠(略奪)を行います。
資治通鑑』胡三省注によると、鍾羌は九千余戸を有し、隴西臨洮谷にいました。
 
当時、羌人は漢に帰順して久しくなるため、器甲(武器甲冑)を持っていませんでした。
そこである者は竹竿や木の枝を持って戈矛に代え、ある者は板案(木の板で作った机)を背負って楯とし、ある者は銅鏡を持って兵器のようにしました(原文「執銅鏡以象兵」。鏡を持って日光を反射させ、遠くの者に武器を持っているように思わせました)
郡県は畏懦(畏怖。臆病になること)して羌人を制御できなくなります。
 
六月丁卯(二十七日)、朝廷が諸羌で連結して叛逆を謀った者の罪を赦免しました。
 
[十八] 『後漢書孝安帝紀』からです。
秋九月庚午(初一日)(太后)三公に詔を発しました。旧令を明申(明らかにすること)して奢侈を禁じ、浮巧の物(無用奇巧の物)を作ったり厚葬によって財を浪費しない(无作浮巧之者,殫財厚葬)ように命じます。
 
[十九] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
同日(九月庚午)、太尉徐防が災異と寇賊を理由に策免(策書による罷免)されました。
三公が災異によって罷免されるのは徐防から始まります。
 
辛未(初二日)、司空尹勤も水雨漂流(大雨や洪水等の水害)によって策免されました。
 
[二十] 『後漢書孝安帝紀』からです。
癸酉(初四日)、揚州五郡の租米(地租として納められた米)を調達して東郡、済陰、陳留、梁国、下邳、山陽に供給しました。
『孝安帝紀』の注によると、揚州五郡は九江、丹陽、廬江、呉郡、豫章を指します。本来、揚州には六郡がありましたが、会稽は遠かったため租米を調達しなかったようです。
 
[二十一] 『後漢書孝安帝紀』からです。
丁丑(初八日)(太后)詔を発しました「今後、長吏で考竟(訊問。取り調べ)を受けて判決が下っていない者、父母の喪以外で理由なく去職(辞職)した者は、劇県なら十歳(十年)、平県なら五歳(五年)以上経たなければ、新たに任用できないことにする(自今長吏被考竟未報,自非父母喪無故輒去職者,劇県十歳、平県五歳以上乃得次用)。」
「劇県」は政務が複雑な県、「平県」は普通の県です。
 
[二十二] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
壬午(十三日)(鄧太后が)詔を発しました「太僕、少府は黄門鼓吹を減らして羽林士を補い、厩馬で乗輿(皇帝)が常に御すところではないもの(皇帝が頻繁には使わない馬)は全て食を半減しなさい。諸々の造作(製造、建築)で、宗廟園陵の用(需要)に供給するもの以外は全て暫く中止しなさい(諸所造作非供宗廟園陵之用皆且止)。」
 
前半部分の原文は「太僕、少府減黄門鼓吹以補羽林士,厩馬非乗輿常所御者皆減半食」です。
黄門鼓吹は少府に属すはずです。羽林士は光禄勲に属します。太僕は馬厩を管理します。
よって、厩馬の飼料を減らすことは「太僕」に命じ、黄門鼓吹を減らすことは「少府」に命じたのだと思われます。
資治通鑑』胡三省注によると、黄門鼓吹は楽隊で、百四十五人いました。
羽林士は羽林左監と羽林右監に属す武士で、左監は八百人を、右監は九百人を指揮しました。
 
[二十三] 『後漢書孝安帝紀』からです。
丙戌(十七日)(太后)詔を発し、死罪以下の犯罪者および亡命(逃亡)している者にそれぞれ差をつけて贖罪させました。
 
[二十四] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
庚寅(二十一日)、太傅張禹を太尉に、太常周章を司空に任命しました。
後漢書孝安帝紀の注によると、周章の字は次叔で、荊州隨県の人です。
 
[二十五] 『後漢書孝安帝紀からです。
冬十月,倭国が使者を送って奉献しました。
 
後漢書東夷列伝(巻八十五)』によると、倭国王帥升等が生口(奴隷)百六十人を献上して接見されることを願いました(願請見)
 
倭は現在の日本です。光武帝中元二年57年)に初めて使者を派遣しました。今回は前回からちょうど半世紀が経っています。
 
[二十六] 『後漢書孝安帝紀からです。
辛酉(二十三日)、新城の山で泉水が大出しました。
『孝安帝紀』の注によると、人田(民の田地)が突然破壊され、水深は三丈もありました。
 
[二十七] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
当時は大長秋鄭衆、中常侍蔡倫(どちらも宦官です)が権勢を握って政治に関与していたため(秉勢豫政)、周章がしばしば直言を進めましたが、鄧太后はそれを採用できませんでした。
以前、鄧太后は平原王劉勝に痼疾(難病。不治の病)があると考え、また、劉隆が幼少であることを利用するため(貪殤帝孩抱)、劉隆を自分の子として養い、皇帝に立てました。これが殤帝です(和帝元興元年105年参照)
しかし殤帝が死んでから、群臣は劉勝の病が治癒できないものではないと考え(疾非痼)、皆、劉勝に心を寄せました(劉勝を擁立しようとしました。原文「意咸帰之」)
ところが太后は元々劉勝を擁立しなかったため、後に怨恨を抱かれることを恐れ、劉祜を迎えて即位させました。これが安帝です。
周章は衆心が安帝に帰附していないと判断し、政変を密謀しました。宮門を閉じて鄧騭兄弟および鄭衆、蔡倫を誅殺し、尚書に強制して南宮で太后を廃させ、安帝を遠国の王に封じて平原王を皇帝に立てるという計画です。
しかし密謀は発覚しました。
 
十一月丁亥(十九日)、周章が策免(策書による罷免)されて自殺しました。
 
[二十八] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
戊子(二十日)(鄧太后が)司隸校尉と冀并二州刺史に勅令しました「民が訛言(謡言。詳細はわかりません)によって互いに驚恐し、旧居を棄て(棄捐旧居)、老弱が手をとりあって路上で困窮しています(老弱相攜窮困道路)司隸校尉と二州の刺史は)それぞれ所属する長吏(県の官員)に命じて自ら(民を)説諭させなさい(其各敕所部長吏躬親曉喩)。もし(民が)本郡に帰ることを欲したら、その地が長檄を発行しなさい(原文「在所為封長檄」。「封」は文書に封をすること、「長檄」は公文書です。民が故郷に帰ることを欲したら、その地の官が帰郷を許可する文書を発行して民に与えることにしました)。もし(帰郷を)欲しなかったら、強制してはなりません。」
 
[二十九] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月乙卯(十八日)、潁川太守張敏を司空に任命しました。
 
[三十] 『資治通鑑』からです。
(鄧太后の)詔によって、車騎将軍鄧騭と征西校尉任尚が五営(『資治通鑑』胡三省注によると、北軍五校の営です)および諸郡の兵五万人を率いて漢陽に駐屯し、羌族に備えました。
 
後漢書孝安帝紀』は六月に「車騎将軍鄧隲と征西校尉任尚を派遣して(羌を)討たせた」と書いていますが、『資治通鑑』は『後漢書西羌伝(巻八十七)』に従って冬に鄧騭と任尚の出征を書いています(胡三省注参照)
 
[三十一] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
この年、十八の郡国で地震があり、四十一の郡国で大水(洪水)があり(「大水」は『資治通鑑』の記述で、原文は「四十一大水」です。『孝安帝紀』は「四十一の郡国で大雨が降り、山水が氾濫した場所もあった(四十一雨水,或山水暴至)」と書いています)、二十八の郡国で大風が吹いて雹が降りました。
 
[三十二] 『資治通鑑』からです。
鮮卑の大人(指導者)燕荔陽が宮闕を訪ねて朝賀しました。
太后は燕荔陽に王の印綬と赤車、参駕(車を牽く三頭の馬)を下賜し、烏桓校尉が住む甯城付近に留まって胡市を通じさせるように命じました(辺境の交易を行わせました)
資治通鑑』胡三省注によると、甯城は上谷郡に属します。
 
また、東漢はこれを機に南北両部の質館を建てて帰順した諸族の人質を受け入れました。鮮卑の邑落百二十部がそれぞれ人質を送ります(質館がどこに建てられたのかは分かりません。原文「因築南北両部質館。鮮卑邑落百二十部各遣入質」)
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代153 安帝(三) 鄧太后の行幸 108年(1)