東漢時代156 安帝(六) 売官 109年(2)

今回は安帝永初三年の続きです。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
当時は国費が不足していたため、三公が上奏しました。吏民に銭穀を納めさせて、それぞれの額や量によって関内侯、虎賁(勇士)、羽林郎、五官、大夫(『孝安帝紀』は「五大夫」としていますが恐らく誤りです。ここは『資治通鑑』に従いました)、官府吏、緹騎、営士の官爵を与えるべきだと進言します。
 
資治通鑑』胡三省注によると、「五官」は郎(五官中郎将管轄下の郎官)、「大夫」は光禄太中中散諫議大夫、「官府吏」は諸官府に仕える者、「緹騎」は執金吾に仕える二百人の騎士、「営士」は五校営の士です。
 
東漢後期は「売官(官職を売ること)」が盛んに行われるようになります。『孝安帝紀』も『資治通鑑』もこの時の上奏が実行されたかどうかを明らかにしていませんが、東漢における「売官」は恐らくここから始まります。
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
己巳(十日)、安帝が詔を発し、上林苑と広成苑(広城苑。安帝永初元年・107年参照)で開墾できる土地を貧民に分け与えました。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲申(二十五日)、清河愍王劉虎威(清河孝王劉慶の子。安帝の兄弟)が死にました。劉虎威には子がいませんでした。
 
五月丙申(初七日)、楽安王劉寵の子劉延平を清河王に封じて孝王劉慶の後を継がせました。
劉寵は千乗貞王劉伉の子で、劉伉は章帝の子、劉慶の兄弟です。
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉延平の諡号は恭王です。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
丁酉(初八日)、沛王(節王)が死にました。
 
劉正の父は釐王劉定で、劉定は献王劉輔の子、光武帝の孫です。『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉正の死後、子の劉広が継ぎました。諡号は孝王です。
 
[十一] 『後漢書孝安帝紀』からです。
癸丑(二十四日)、京師で大風が吹きました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
六月、漁陽の烏桓と右北平の胡人千余人が代郡、上谷を侵しました。
 
後漢書孝安帝紀は「烏桓が代郡、上谷、涿郡を侵した」としていますが、『後漢書烏桓鮮卑列伝(巻九十)』には「涿郡」がありません。『資治通鑑』は『烏桓鮮卑列伝』に従っています(胡三省注参照)。  
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
漢人韓琮が匈奴単于に従って入朝しました。
資治通鑑』胡三省注によると、当時は漢人匈奴が雑居しており、韓琮は南単于に仕えていました。
 
韓琮が帰ってから南単于を説得して言いました「関東は水潦(大雨。水害)のため人民が飢餓して死に絶えています。撃つことができます。」
単于はこの言を信じて東漢に叛しました。
 
[十四] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、海賊張伯路等が沿海の九郡を侵して二千石や令長を殺しました。
 
朝廷は侍御史巴郡の人龐雄を派遣し、州郡の兵を監督して討伐させました。
龐雄が張伯路等を破ったため、張伯路等は投降を乞いましたが、暫くして再び集結しました(尋復屯聚)
 
[十五] 『後漢書孝安帝紀からです。
庚子、安帝が長吏(県の高級官吏)に詔を発し、所在地を案行(巡視)させました。各地で宿麦(冬麦)や蔬食(野菜)を植えさせ、地力を尽くすことに務め(開墾できる土地を有効に利用させ)、貧しい者には種餉(種や食料)を支給しました。
 
[十六] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月、雁門烏桓の率衆王無何允と鮮卑大人丘倫等および南匈奴骨都(または「骨都侯」)が合計七千騎を率いて五原を侵し、高渠谷で太守と戦いました。五原の郡兵が大敗します。
 
『孝安帝紀』の注によると、『東観漢記』では「九原高梁谷で戦った」としています。「渠」と「梁」は似ているので、どちらかが誤りのようです。
五原は郡で、九原は五原郡に属す県です。
 
[十七] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
十月、南単于が叛して美稷で中郎将耿种を包囲しました。『資治通鑑』胡三省注によると、耿种は使匈奴中郎将です。
 
冬十一月、大司農陳国の人何熙に車騎将軍の政務を代行させ(行車騎将軍事)、中郎将龐雄を副(副将)にしました。五営および辺郡の兵二万余人を指揮させます。
また、詔によって遼東太守耿夔に鮮卑と諸郡の兵を率いさせ、何熙等と共に南匈奴を撃たせました。
同時に梁慬を行度遼将軍事(度遼将軍代行)に任命します。
 
龐雄と耿夔は南匈奴の薁鞬日逐王を攻撃して破りました。
 
[十八] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月辛酉(初五日)、九つの郡国で地震がありました。
 
[十九] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
乙亥(十九日)、孛星(彗星の一種)が天苑に現れました。
資治通鑑』胡三省注によると、天苑十六星は昴畢の南にあり、天子の苑囿を象徴します。
 
[二十] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
この年、京師および四十一の郡国で大雨と雹が降り(『孝安帝紀』は「雨水雹」ですが、『資治通鑑』は「雨水」だけで「雹」がありません)、并涼二州を大飢饉が襲いました。
『孝安帝紀』の注によると、雹は雁子(雁の卵)ほどの大きさがありました。
 
[二十一] 『資治通鑑』からです。
陰陽が調和せず、軍旅(出征)がしばしば起きているため、鄧太后が詔を発しました。年末に旧衛士のために開く宴席では遊戯音楽を設けず(勿設戲作楽)(大儺の儀式では)厄払いの侲子童子を半数に減らすことにしました。
 
「旧衛士のために開く宴席」の原文は「饗遣衛士」です。『資治通鑑』胡三省注によると、西都西漢の制度では年末に衛卒が交代し、皇帝が慰労の宴に参加して衛士を解散させました。
旧衛士を慰労する宴の儀礼では(饗遣故衛士儀)百官が集合しました。百官が席に着いてから、謁者が符節を持って旧衛士を端門から導き入れ、衛司馬が幡鉦(旗と楽器)を持って護行します。旧衛士が止まると、侍御史が節を持って慰労し、詔によって疾苦について質問したり、発言したいことが書かれた章奏を受け取ります。その後、宴を開いてもてなし、音楽を奏でたり角抵(格闘技の一種)を見物しました(饗賜作楽観以角抵)。宴が終わると衛士を解散して帰郷させ、農桑(農耕)を奨励しました。
また、年末には大儺(厄除け)の儀式があり、中黄門の子弟で十歳以上十二歳以下の者から百二十人を選んで侲子(厄除けの童子にしました。皆、赤い頭巾と黒い衣服を身に着け(赤幘皁製)、大鞉(太鼓の一種)を持ちます。
 
 
 
次回に続きます。