東漢時代160 安帝(十) 辺境の移動 111年
今回は東漢安帝永初五年です。
東漢安帝永初五年
辛亥 111年
春正月庚辰朔、日食がありました。
己丑(初十日)、太尉・張禹を罷免しました。
甲申(初五日)、光禄勳・潁川の人・李脩を太尉にしました。
また、「己丑」と「甲申」は逆ではないかと思われます。
二月丁卯、安帝が詔を発し、郡国が献上する太官の口食(食糧)を削減させました。
太官は皇帝の食事を担当します。
先零羌が河東を侵して河内に到りました。
百姓が驚愕し、多くが南に奔走して黄河を渡ります。
『資治通鑑』胡三省注によると、北軍中候は屯騎・越騎・歩兵・長水・射声の五営を管理します。かつては中塁校尉がいて北軍営塁の事も兼務しましたが(領北軍営塁之事)、中興後(東漢になってから)、中塁校尉を除いて軍中候だけを置き、五営を監督させることにしました。「北軍中候」は「北軍軍中候(北軍の軍中候)」の略称です。
安帝が詔を発し、魏郡、趙国、常山、中山に六百十六カ所の塢候(塢壁。営壁。土堡)を修築させました。
羌が強盛になってからも、縁辺(辺境)の二千石(太守・国相)や令・長は多くが内郡の人だったため、守戦(抗戦)の意識がなく、皆、争って郡県を移して寇難を避けるように上書しました。
三月、安帝が詔を発し、隴西郡府を襄武に、安定郡府を美陽に、北地郡府を池陽に、上郡郡府を衙に遷しました。
安帝永初四年(110年)に金城郡府も襄武に遷されました。胡三省は「あるいは二郡(隴西と金城)とも治所を襄武に遷したのだろうか」と書いています。
『資治通鑑』胡三省注によると、美陽県は扶風に、池陽と衙の二県は馮翊に属します。
百姓は故郷を愛したため故地から去ることを喜びませんでした。そこで(政府は)禾稼(作物)を刈り入れ、室屋(家屋)を撤去し、営壁を平らにして積聚(貯蓄)を破毀しました。
当時は旱蝗・饑荒が続いており、そこに(政府による)駆逐や強奪(駆䠞劫掠)が加わったっため、民衆は流離分散し、道沿いで命を落としました。ある者は老弱な家族を棄て、ある者は人の僕妾になり、人口の太半が失われます。
朝廷は再び任尚を起用して侍御史に任命しました。
任尚は上党の羊頭山で羌を攻めて破ります。
夫餘王が楽浪を侵しました。
高句驪王・宮と濊貊(民族名)が玄菟を侵しました。
戊戌(二十日)、安帝が詔を発しました「朕は不徳によって郊廟を奉じ、大業を継承したが、和を興して善を降すことができないので、人のために福を祈る。災異が蜂起して寇賊が縦横し、夷狄が夏(華夏。中原)を乱し(夷狄猾夏)、戎事(兵事)が休むことなく、百姓が匱乏(欠乏)して徵発のために疲弊している。重ねて蝗蟲が滋生(繁殖)し、害が成麦に及び、秋の収穫の時に当たって甚だ哀痛している(秋稼方收甚可悼也)。朕の不明によって統理(統治)が中(中庸)を失い、また、欠政を輔佐するための(毗闕政)忠良もまだ獲ていない。『伝』はこう言っている『倒れたのに起こさず、危険なのに抱えないのなら、補佐する者は何の必要があるのだ(顛而不扶,危而不持,則将焉用彼相矣)。』公卿大夫はどのようにして匡救(矯正救援)し、この艱戹(艱厄。困難)を越えて天誡を受け入れるのだ。為政の本は人を得ることが最も重要であり(莫若得人)、賢才を褒めて善を顕揚するのは、聖制(聖人の制度)が優先したことだ。『優秀な士が多数そろい、文王が天下を安寧にした(原文「済済多士,文王以寧」。『詩経・大雅』の句です)』という。忠良正直の臣を得て不逮(不足)を輔佐することを想う。よって三公・特進・侯・中二千石・二千石・郡守・諸侯に命じ、賢良方正で道術(学術。治世の道)があり、政化に達していて、直言極諫できる士各一人および至孝で衆人と卓異の者(衆人と全く異なる者)を挙げさせる。全て公車に派遣せよ。朕が親覧しよう(自ら確認しよう)。」
張伯路等は遼東に逃げ帰ります。
しかし遼東の人・李久等が共に張伯路を斬りました。
六月甲辰、楽成王・劉巡(釐王)が死にました(和帝永元九年・97年参照)。
秋七月己巳、三公、特進、九卿、校尉に詔を発し、子孫で戦陣に通暁していて将帥に任命できる者を推挙させました。
以下、『孝安帝紀』の注から解説します。「九卿」は奉常、光禄、衛尉、太僕、鴻臚、廷尉、少府、宗正、司農です。「校尉」は城門校尉、屯騎校尉、越騎校尉、歩兵校尉、長水校尉、胡騎校尉等です。
九月、漢陽の人・杜琦と弟の杜季貢、同郡の王信等が先零諸種羌(先零羌の諸族)と通謀し、民衆を集めて上邽城を攻略しました。
『孝安帝紀』の注によると、杜琦は安漢将軍を自称しました。
冬十二月、漢陽太守・趙博が客の杜習を送って杜琦を刺殺しました。杜習は討姦侯に封じられます。
杜季貢、王信等は衆を率いて樗泉営を占拠しました。
この年、九州で蝗害があり、八つの郡国で大雨の被害がありました(雨水)。
次回に続きます。