東漢時代162 安帝(十二) 板楯蛮 114年

今回は東漢安帝元初元年です。
 
東漢安帝元初元年
甲寅 114
 
[] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
春正月甲子(初二日)、永初七年から元初元年に改元しました。
 
民に一人当たり爵二級を、孝悌力田には一人当たり三級を与え、爵位が公乗爵位名。光武帝中元二年57年参照)を越えている者は子や同産(同母兄弟)、同産の子に与えることを許しました。
名数(戸籍)がない民および流民で名乗り出て戸籍を欲する者(民脱無名数及流民欲占者)には一級を与えました。
鰥寡(配偶者を失った男女)、孤独(孤児や身寄りがない老人)、篤𤸇(重病の者)、自存できない者には一人当たり穀物三斛を、貞婦には一人当たり帛一匹を与えました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
二月乙卯(二十四日)、日南郡の地が裂けて、長さが百余里もありました。
資治通鑑』胡三省注によると、裂けた地の長さは百八十二里、広さは五十六里に及びました。
 
三月癸亥(初二日)、日食がありました。
 
後漢書孝安帝紀』は「二月己卯、日南の地が裂けた。三月癸酉、日食があった」としています。
しかし『後漢書五行志四』は「三月己卯、日南の地が裂けた」としており、『資治通鑑』胡三省注によると袁宏の『後漢紀』も「三月己卯」としています。
胡三省注は「この年の二月は壬辰朔なので『己卯』がなく、三月は壬戌朔なので『癸酉』は十二日になり、日食が起きるはずがない(日食は月末月初に起きます)」と解説しています。
そのため、『資治通鑑』は『孝安帝紀』の「二月己卯」を字が似ている「乙卯」に、「三月癸酉」を月初の「癸亥」に置き換えています。
もし『五行志四』が正しくて日南の地が裂けたのが「三月己卯」だとしたら、「三月己卯」は三月十八日になります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
安帝が詔を発し、兵を派遣して河内の通谷衝要(山谷の道や要衝の地)三十六カ所(『後漢書西羌伝(巻八十七)』は「三十三所」としているので、恐らく『資治通鑑』の「三十六所」は誤りです)に駐留させました。
それぞれ塢壁(営壁。土堡)を造り、鳴鼓(警報の太鼓)を設けて羌寇に備えます。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月丁酉(初七日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
京師および五つの郡国が旱害と蝗害に襲われました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
安帝が三公、特進、列侯、中二千石、二千石、郡守に詔を発し、敦厚かつ質直(質朴実直)の者をそれぞれ一人挙げさせました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、先零羌(零昌)が雍城を侵しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』はここで「六月丁巳、河東の地が陥没した(河東地陷)」と書いています。
しかし安帝永初元年107年)の六月丁巳にも「河東の地が陥没した」という記述がありました。
資治通鑑』では永初元年にも本年(元初元年)にも記述がなく、『後漢書五行志四』では永初元年の記述だけがあります。
恐らく、『孝安帝紀』の本年の記述は重複しており、永初元年の記述が正しいはずです。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、蜀郡の夷少数民族が蚕陵(県名)を侵して県令を殺しました。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月乙丑(初七日)、太尉李脩を罷免しました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
羌豪号多と諸種(諸族)が武都、漢中を侵して略奪を行いましたが、巴郡の板楯蛮が救援しました。
漢中五官掾(『資治通鑑』胡三省注によると、郡には五官掾がおり、功曹(官名)や諸曹(各部の官員)に欠員が生まれたら政務を代行しました)程信も郡兵を率いて板楯蛮と共に号多を撃破します。
 
資治通鑑』胡三省注によると、板楯蛮夷は秦昭襄王の時代に白虎を射殺するという功を立てたため、一頃の田租を免除し(復夷人頃田不租)、妻が十人いても人頭税をとらず(十妻不算)、人を傷つけたら罪を裁くものの、人を殺しても倓銭(贖罪に使う財貨)を納めることで死刑を免れさせました(傷人者論,殺人者得以倓銭贖死)
高祖劉邦が漢王になった時は夷人(板楯蛮)を動員して三秦を平定したため、渠帥(指導者)七姓の租賦を免除し(『後漢書南蛮西南夷列伝(巻八十六)』によると、羅龔の七姓です)、残りの家は毎年一人当たり四十銭の賨銭(税金)を納めさせることにしました。この後、代々「板楯蛮夷」と号すことになります。板楯(木板の盾)を持って戦ったため、「板楯蛮」と命名されたようです。
閬中には渝水があり、人々(板楯蛮)は多くが川の周辺に住んでいました。天性の勁勇(頑強勇猛)で、しばしば敵陣を攻略し、歌舞を好んだため、高祖が『巴渝舞』を作りました。
 
号多は逃げ帰って隴道を断ち、零昌(先零羌)と合流しました。
しかし侯霸、馬賢が枹罕で号多と戦って破りました。
 
後漢書孝安帝紀はこの事件をこう書いています「先零羌が武都、漢中を侵し、隴道を絶った」。
後漢書西羌伝(巻八十七)を見ると「零昌が兵を送って雍城を侵した(五月)。また、号多と当煎、勒姐の大豪が共に諸種(諸羌族を脅かし、兵を分けて武都、漢中を鈔掠したが、巴郡板楯蛮が兵を率いてこれを救い、漢中五官掾程信が壮士を率いて蛮と共に撃破した。号多は退走し、戻って隴道を絶ってから、零昌と謀を通じた」と書かれています。
『孝安帝紀』は「先零羌が武都、漢中を侵した」としていますが、先零羌は零昌の族で、今回、武都と漢中を侵したのは号多と当煎、勒姐等の諸族です。
尚、号多は人名、当煎と勒姐は族名です。号多がどの種族に属すのかははっきりしません。
 
[十二] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
辛未(十三日)、大司農山陽の人司馬苞を太尉に任命しました。
『孝安帝紀』の注によると、司馬苞は字を仲成といい、東緍の人です。東緍は山陽郡に属す県で、『後漢書郡国志三』は「東緡」としています。
 
[十三] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月戊子朔、日食がありました。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
涼州刺史皮楊(または「皮陽」。『資治通鑑』胡三省注によると、皮氏は樊仲皮(周の卿士)の後代です。また、鄭には上卿の子皮がおり、罕氏から生まれました。)が狄道で羌を撃ちましたが、大敗して死者が八百余人に上りました。
 
資治通鑑』胡三省注がこう書いています「隴西郡の旧治所は狄道だったが、安帝永初五年111年)に襄武に遷ったので、狄道の地は既に放棄されていた。」
皮楊は自ら狄道を攻撃して敗れたようです。
 
後漢書孝安帝紀』は「先零羌が涼州刺史皮陽を狄道で敗った」としています。
後漢書西羌伝(巻八十七)』の記述は「皮楊が狄道で羌を撃った(先零羌とは断定していません)」で、『資治通鑑』は『西羌伝』に従っています。
 
[十五] 『後漢書孝安帝紀』からです。
乙卯(二十八日)、安帝が詔を発し、三輔で三歳(三年)の田租、更賦(兵役の代わりに納める税)、口筭人頭税を免除しました。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
この年、十五の郡国で地震がありました。
 
後漢書孝安帝紀』は「十一月。この年、十五の郡国で地震があった(十一月。是歳郡国十五地震」と書いています。。
後漢書五行志四』には「元初元年(本年)、十五の郡国で地震があった」とあるので、一年間で十五の地震があったようです(「十一月」は余分です)
『孝安帝紀』の「十一月」について、中華書局『孝安帝紀』の校勘記は「十一月の下に欠文がある(「十一月」の下の文が失われている。原文「十一月下有闕文」)」と解説しています。
 
 
 
次回に続きます。