東漢時代175 安帝(二十五) 鄧氏失脚 121年(3)

今回も東漢安帝建光元年の続きです。
 
[十三] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
安帝は幼少の頃、聡明と号されていたため、鄧太后に擁立されました。
しかし生長すると多くの行動に徳が無くなり、しだいに太后の意に合わなくなりました。安帝の乳母王聖がこの状況を知ります。
 
以前、鄧太后が済北王と河間王の子を京師に招きました。『後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると安帝元初六年119年)の事なので、済北王は恵王劉寿、河間王は孝王劉開です。劉寿と劉開は章帝の子です。
河間王劉開の子劉翼は容儀(容貌挙止)が優れていたため、鄧太后は劉翼が常人とは異なると思い、平原懐王・劉勝の後嗣として京師に留めました。
劉勝は和帝の子、殤帝の兄です。劉勝には子がいなかったため、楽安夷王劉寵の子劉得が平原王に封じられました(安帝永初七年113年)。劉寵は千乗貞王劉伉の子で、劉伉は章帝の子です。
しかし劉得(哀王)にも子がいなかったため、劉翼が後嗣として留められました。劉得は安帝元初六年119年)に死に、翌年、劉翼が平原王に封じられて平原懐王劉勝の祭祀を継承しました。
 
王聖は鄧太后が久しく政権を還そうとしないため、廃置(皇帝廃立)があることを憂慮しました。そこで常に中黄門李閏、江京と共に安帝の左右に侍り、安帝の前で鄧太后を誹謗しました(毀短太后於帝)。安帝は話を聞くたびに忿懼(怨恨と懼れ)を抱くようになります。
 
本年、鄧太后が死んでから、かつて罰を受けたことがある宮人が怨恚(怨恨)によって太后の兄弟に当たる鄧悝、鄧弘、鄧閶を誣告しました(三人とも既に死んでいます)尚書鄧訪から廃帝の故事を得て平原王・劉翼の擁立を謀ったという内容です。
それを聞いた安帝は往事に遡って怒りを抱き(死者に対して怨みを抱き)、有司(官員)に命令して鄧悝等の大逆無道を上奏させました。
 
安帝は西平侯鄧広徳(『資治通鑑』は「鄧広宗」としていますが誤りです)、葉侯鄧広宗(『資治通鑑』は「鄧広徳」としていますが誤りです)、西華侯鄧忠、陽安侯鄧珍、都郷侯鄧甫徳を廃して全て庶人に落としました。
西平侯鄧広徳と都郷侯鄧甫徳は鄧弘の子、葉侯鄧広宗は鄧悝の子、西華侯鄧忠は鄧閶の子です。『資治通鑑』胡三省注によると、鄧珍は鄧悝の兄鄧京の子です。
 
鄧騭は陰謀に関与しなかったため、特進を免じただけで封国に送られました。
宗族は官を免じて故郡に帰されます。『資治通鑑』胡三省注によると、鄧氏は元々南陽の人です。
鄧騭等の財産田宅が没収され、鄧訪とその家属は遠郡に遷されました。
 
郡県が逼迫したため鄧広宗と鄧忠は自殺しました。
 
鄧騭は羅侯に改封されました。
資治通鑑』胡三省注によると、羅県は長沙郡に属します。
 
五月庚辰(初一日)、鄧騭と子の鄧鳳が絶食して死にました。
鄧騭の従弟に当たる河南尹鄧豹、度遼将軍舞陽侯鄧遵、将作大匠鄧暢も自殺します。
鄧広徳兄弟だけは母(鄧弘の妻)が閻后(安帝の皇后)の同産(同母姉妹)だったため、京師に留まることができました。
 
資治通鑑』はここで、「朝廷は再び耿夔を度遼将軍に任命し、楽安侯鄧康(前年、鄧氏の属籍を絶たれました)を招いて太僕にした」と書いていますが、鄧康は「夷安侯」です。また、『後漢書鄧寇列伝(巻十六)』を見ると、安帝は鄧騭を誅滅してから鄧康を招いて侍中にしており、太僕になるのは順帝が即位してからの事です。
耿夔に関しては、『後漢書耿弇列伝(巻十九)』に「建光年間、再び度遼将軍を拝命した」とあります。「建光」の年号は一年だけなので本年の事になります。
 
丙申(十七日)、平原王劉翼を都郷侯に落とし、河間に還らせました。
劉翼は賓客を謝絶し、門を閉じて自分を守ったため、禍から逃れることができました。
 
鄧氏が皇后に立てられた時(和帝永元十四年102年)、太尉張禹と司徒徐防が鄧后の父鄧訓を追封するべきだと考え、司空陳寵と共に上奏しようとしました。しかし陳寵は前代にこのような奏請(上奏)の前例がなかったため反対しました。議論は数日経っても決着がつきませんでしたが、結局、鄧訓が追封されました。
後漢書鄧寇列伝(巻十六)』によると、元興元年105年)、和帝が鄧訓を追封して平寿敬侯の諡号を贈りました。
 
鄧訓に封爵諡号を追加してから、張禹と徐防が子を派遣して虎賁中郎将鄧騭に礼物を贈ろうとし、また陳寵を誘いました。
しかし陳寵はやはり従いません。
そのため、陳寵の子陳忠は鄧氏がいる間、志を得られませんでした。
鄧騭等が敗れてから、鄧忠は尚書になり、頻繁に鄧氏の悪を弾劾して陥れる上書をしました(上疏陷成其悪)
資治通鑑』胡三省注は「陳寵が守ったのは是である(正しい)。陳忠が為したのは非である」と書いています。
 
大司農京兆の人朱寵は鄧騭が罪を犯していないのに禍に遇ったことを悲痛しました。そこで、肉袒輿櫬(「肉袒」は上半身を裸にすることで、謝罪の姿です。「輿櫬」は自分の棺を準備することです)して上書しました「伏して和熹皇后(当時はまだ「和熹」という諡号ではないはずです)の聖善の徳を思うに、漢の文母西周文王の母)に値します。また、その兄弟は忠孝で、同心になって国を憂い、社稷がこれを頼りにしましたが、功が成ったら身を退き、封国を譲って高位を辞退しました(讓国遜位)。歴世の貴戚(皇族外戚において比べられる者はなく、積善履謙(善を積んで謙譲を重ねること)の祐(福)を享受するべきです。しかし突然、宮人の単辞(一方の言葉)に陥れられました。(讒言した者は)利口傾険(口が達者で心が姦悪なこと)で逆に国家を乱しています(反乱国家)。罪に申證(明確な証拠)がなく、獄に訊鞠(審査)がないのに、鄧騭等にこのような苛酷な禍を被らせ(罹此酷陷)、一門七人がそろって命を失いました(原文「一門七人並不以命」。『資治通鑑』胡三省注によると、七人は鄧騭と従弟の鄧豹、鄧遵、鄧暢、鄧騭の子の鄧鳳、鄧鳳の従弟の鄧広宗と鄧忠を指します)。屍骸が流離して冤魂が帰ることができず、天に逆らって人に感じさせ(逆天感人)、全土が喪気(気が沈むこと)しています(率土喪気)(死体を)収めて冢次(墓地)に還し、遺孤(鄧氏の孤児)を寵樹(恩恵を与えて養育すること)し、血祀(祭祀)を奉承(継承)させることで、亡霊に謝すべきです。」
朱寵は自分の言葉が激切であることを知っていたため、自ら廷尉を訪ねました。
陳忠が朱寵を弾劾する上奏を行います。
安帝は詔を発して朱寵を罷免し、田里に帰らせました。
しかし衆庶(大衆)の多くが鄧騭のために冤罪を訴えます。安帝はやっと誤りを大いに悟り(帝意頗悟)、鄧広宗等を逼迫した州郡を譴責しました。
鄧騭等の死体は雒陽に還らせて北芒(雒陽城北の山です)に埋葬し、諸従兄弟も皆、京師に帰ることが許されました。
 
 
 
次回に続きます。