東漢時代177 安帝(二十七) 三年の喪 121年(5)

今回で東漢安帝建光元年が終わります。
 
[十五] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月己卯(初一日)、永寧二年から建光元年に改元して天下に大赦しました。
 
[十六] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
壬寅(二十四日)、太尉馬英が死にました。
 
後漢書劉趙淳于江劉周趙列伝(巻三十九)』は「馬英を策罷(策免)した」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「列伝が誤り」としています。
 
[十七] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
和帝永元元年89年)に焼当羌の豪東号の子麻奴が父に従って東漢に降りましたが、永初元年107年)に麻奴がまた叛して塞を出ました。
 
焼当羌忍良等は、麻奴兄弟が本来、焼当羌の世嫡なのに校尉馬賢の撫恤(按撫)が行き届かなかったため、常に怨心を抱いていました。そこで互いに結んで諸種(諸族)を脅し、その兵を率いて湟中を侵しました。金城諸県を攻撃します。
 
八月、馬賢が先零種(先零羌)を率いて金城の牧苑で焼当羌戦いましたが、利がありませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の辺郡にはそれぞれ牧苑があり、馬を養っていました。
 
麻奴等がまた令居で武威と張掖の郡兵を破りました。この機に先零、沈氐諸種(諸族)を脅し、四千余戸を率いて山沿いに西走しました。
その後、更に武威を侵します。
 
馬賢は追撃して鸞鳥(『資治通鑑』胡三省注によると、武威郡に属す県です)に到り、諸羌を招いて投降を誘いました。
その結果、諸羌で投降した者は数千人に上り、麻奴は南の湟中に帰りました。
 
[十八] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲子(十六日)、元司徒劉愷を太尉に任命しました。
 
以前、清河相叔孫光が貪汚の罪に坐して処罰を受け、二世に禁錮が増やされました(父子二代が官途に就けなくなりました)
劉愷が太尉になった頃、居延都尉范邠も貪汚の罪を犯しました、
朝廷は叔孫光の前例に則ろうとしましたが、劉愷だけがこう言いました「『春秋』の義においては、善に対する褒賞は子孫に及び、悪に対する処罰はその身に留まるものです(善善及子孫,悪悪止其身)。これは人を善に進ませるためです。今は臧吏汚職した官吏)の子孫も禁錮させており、軽罪でも重罰が採用され(以軽従重)、懼れが善人に及んでいます。これは先王の詳刑(慎重に刑罰を行うこと)の意ではありません。」
陳忠もこの意見に賛成しました。
安帝は詔を発して「太尉の意見が正しい(太尉議是)」と言いました。
 
[十九] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
鮮卑の其至鞬が居庸関を侵しました。
 
九月、雲中太守成厳が鮮卑を撃ちましたが、敗れました。功曹楊穆が身を挺して成厳を守り、共に戦没しました。
 
鮮卑は馬城で烏桓校尉徐常を包囲しました。
しかし、度遼将軍耿夔と幽州刺史龐参が広陽、漁陽、涿郡(三郡とも幽州に属します)の甲卒を動員して救ったため、鮮卑は包囲を解いて去りました。
 
[二十] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
戊子(初十日)、安帝が衛尉馮石の府(家)行幸し、宴飲して十余日留まりました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』では「十二月丙申(十八日)」に皇宮に還っています。しかし『後漢書朱馮虞鄭周列伝(巻三十三)』は「留飲十許日」としており、『資治通鑑』は『朱馮虞鄭周列伝』に従っています。
 
馮石は陽邑侯(『資治通鑑』では「陽邑侯」ですが、『朱馮虞鄭周列伝』では「楊邑郷侯」です)馮魴の孫です。
父の馮柱が顕宗(明帝)の娘獲嘉公主を娶り、馮石が公主の爵を継いで獲嘉侯になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、獲嘉県は河内郡に属し、元は汲県の新中郷です。西漢武帝がこの地を通った時、呂嘉を獲たと聞いたため、「獲嘉」が県名になりました。
 
安帝の馮石に対する賞賜は甚だ厚く、子の馮世を黄門侍郎に、馮世の二人の弟を郎中に任命しました。
『孝安帝紀』の注によると、安帝は賞賜として馮石に宝剣、玉玦、雑繒布等を与えました。
 
馮石は皇帝の機嫌をとるのが上手かったため(能取悦当世)、安帝に寵愛されました。
 
[二十一] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
この秋、京師と二十九(『資治通鑑』は「二十七」としていますが、『孝安帝紀』『後漢書五行志一』では「二十九」です。恐らく『資治通鑑』が誤りです)の郡国で大雨が降って被害が出ました(雨水)
 
[二十二] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十一月己丑(十二日)、三十五の郡国で地震があり、ある場所では地が裂けました。
 
安帝が三公以下の官員に詔を発し、それぞれ封事(密封した上書)によって政治の得失を述べさせました。
また、光禄大夫に案行(巡行)させ、死者一人当たりに銭二千を下賜し、本年の田租を除きました。被災が甚だしい者は口賦(人頭税)も納めさせないことにしました。
 
[二十三] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
鮮卑が玄菟を侵しました。
 
[二十四] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
尚書祋諷等が上奏しました「孝文皇帝は約礼の制(礼を簡約にする制度)を定め、光武皇帝は告寧の典(官員が喪に服すために休暇をとる制度)を絶ちました。これは万世に残して誠に改めるべきではありません(貽則万世誠不可改)。大臣が三年の喪を行う制度を再び断つべきです。」
安帝元初三年116年)から大臣が三年の喪に服すことが許されていました。
 
尚書陳忠が上書しました「高祖が命を受けて蕭何が制を創ってから、大臣には寧告(告寧)の科(規則)があり、致憂(憂愁をもたらすこと。哀悼)の義に符合していました。建武光武帝の年号)の初めは自ら大乱を受け継いだので、諸国の政においては多くが簡易に向かい、大臣は告寧ができなくなりました。そして群司も禄を求めて私利を考えたので(営禄念私)、三年の喪を遵守して顧復の恩(父母の恩。「顧復」は『詩経小雅蓼莪』の「顧我復我」が元になっており、本来は繰り返し子供の世話をみるという意味です)に報いる者が少なくなり、礼義の方(道理)が実に彫損(損傷)されました。
陛下は大臣の終喪(三年の喪を守ること)を許しましたが、これ以上の聖功美業はありません(聖功美業靡以尚茲)。『孟子』はこう言いました『我が家の老人を敬ってそれを人の家の老人にも及ぼし、我が家の幼児を愛してそれを人の家の幼児にも及ぼせば、天下を掌上で運営できる(敬愛の心を広げれば容易に天下を治めることができる。原文「老吾老以及人之老,幼吾幼以及人之幼,天下可運於掌」)。』臣は陛下が高くに登って北を望み、甘陵の思い(安帝の死んだ父母への思い)によって臣子の心(臣子が死んだ父母を思う心)を揆度(推測)することを願います。そうすれば海内が全て場所を得ることができます(天下の人が満足できます。原文「海内咸得其所」)。」
資治通鑑』胡三省注によると、甘陵は安帝の父母の陵で清河にあるので、「北を望む」と言っています。清河郡は冀州に属し、雒陽の東北に位置します。
 
陳忠の上奏が提出されましたが、宦官が三年の喪を不便だと考えたため採り上げませんでした。
 
庚子(二十三日)、二千石以上の官員が三年の喪に服す制度を再び廃止しました。
 
[二十五] 『後漢書孝安帝紀からです。
癸卯(二十六日)、安帝が三公、特進、侯、卿、校尉に詔を発し、武猛で将帥の任を任せられる者をそれぞれ五人推挙させました。
 
[二十六] 『後漢書孝安帝紀からです。
丙午(二十九日)、安帝が詔を発し、京師と郡国で水雨の害を被って農作物を損なった者は頃畒に基いて田租を減らしました。
 
[二十七] 『後漢書孝安帝紀からです。
甲子(恐らく誤りです)、初めて漁陽に営兵を置きました。
『孝安帝紀』の注によると、営兵千人が置かれました。
 
[二十八]  『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
十二月、高句驪王宮が馬韓、濊貊の数千騎を率いて玄菟を包囲しました。
しかし、夫餘王が子の尉仇台を派遣し、二万余人を率いて州郡と協力させました。尉仇台と州郡の兵が高句驪王等を討破します。
 
資治通鑑』胡三省注によると、韓には三種があります。馬韓辰韓、弁辰です。馬韓は西に位置し、五十四国がありました。
 
この年、高句驪王宮が死に、子の遂成が立ちました。
 
玄菟太守姚光が喪に乗じて出兵することを欲し、朝廷に上書しました。
議者は皆、出兵を許可するべきだと考えましたが、陳忠がこう言いました「以前は宮が桀黠(強暴狡猾)で、姚光はこれを討つことができなかったのに、死んでから撃つのは非義です。使者を送って弔問し、その機に前罪を責讓(譴責)して、(罪を)赦して誅罰を加えず、後善を取るべきです(今後の善行を得るべきです。今後の善行によって以前の罪悪を償わせるべきです)。」
安帝はこれに従いました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代178 安帝(二十八) 馮煥父子 122年(1)