東漢時代181 安帝(三十一) 楊震の諫言 123年(2)

今回は東漢安帝延光二年の続きです。
 
[] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
秋七月、丹陽で山崩れがありました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
八月庚午、三署郎の中で、経術に通達(精通)していて牧民(民の管理)を任せられ、視事(政務を行うこと)して三年以上になる者は、全て察挙(地方の官員による推挙)を得られることにしました。
 
[十一] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月、五つの郡国で大雨が降って被害が出ました(雨水)
 
[十二] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
冬十月辛未(初六日)、太尉劉愷を罷免しました。
甲戌(初九日)、司徒楊震を太尉に、光禄勳東莱の人劉熹を司徒にしました。
『孝安帝紀』の注によると、劉熹の字は季明といい、青州長広の人です。長広は東莱郡に属す県です。
 
大鴻臚耿宝が自ら楊震に会いに行き、中常侍李閏の兄を推挙してこう言いました「李常侍は国家(皇帝)に重んじられており、(陛下は)楊震にその兄を招聘させたいと思っています。宝(私)はただ上(陛下)の意を伝えただけです。」
楊震が言いました「もし朝廷(陛下)が三府(三公府)に辟召(招聘)させたいと欲するのなら、本来、詔書の敕(命令書)があるはずだ。」
耿宝は楊震を大いに怨んで去りました。
 
執金吾閻顕も親しい者を楊震に薦めましたが、楊震は従いませんでした。
しかしそれを聞いた司空劉授が李閏の兄や閻顕と親しい者を招聘しました。
楊震はますます怨まれるようになります。
 
当時、安帝が詔を発し、使者を派遣して王聖のために邸宅を大修築させました。
また、中常侍樊豊と侍中周広、謝惲等がますます互いに扇動して(互いに煽り立てて。原文「更相扇動」)、朝廷を動揺混乱させました。
 
楊震が上書しました「臣が伏して念じるに、今は災害が頻発しており(災害滋甚)、百姓が空虚になり、三辺(東西北)が震擾(動揺混乱)し、帑藏(国庫)が匱乏(欠乏)しているので、社稷が安寧の時だとは言い難い状況です(殆非社稷安寧之時)。しかし詔書によって阿母のために第舍(邸宅)を興起し、両坊を一つにして里街を占拠しました(原文「合両為一連里竟街」。『資治通鑑』胡三省注によると、「合両為一」は二つの坊を合わせて一宅にするという意味です。「坊」と「里」は同義です)。彫刻装飾は技巧を極め(雕脩繕飾窮極巧伎)、山を穿って石材を採り(攻山採石)、官員が代わる代わる民を逼迫して(転相迫促)、費(費用)は巨億に上ります。周広と謝惲兄弟は国との間に肺府枝葉の属がないのに(皇帝との間に親族関係がないのに)、近倖姦佞の人に依倚する(頼る)ことで、彼等と威を分けて権を共にし、州郡に属託(要請。委託)して大臣を傾動(動揺)させ、宰司(百官の長)が辟召(官員を招聘すること)する時も旨意(周広等の意思)を承望(心意を測って迎合すること)し、海内の貪汚の人を招来してその貨賂(賄賂)を受け取り、臧錮(貪汚の罪を犯して官途に就けないこと)があって世に棄てられた者(有臧錮棄世之徒)まで再び顕用(顕官)を得ることがあります。白黒が渾淆(混乱。混沌)となり、清濁が源を同じくしているので、天下が讙譁(喧噪。批難)して朝廷との間に譏を結んでいます(譏忿(批難怨恨)を生んでいます。原文「為朝結譏」)。臣が師の言を聞いたところでは、上が(下から財力を)取った時は、(下の者は)財が尽きたら怨み、力が尽きたら叛し、怨叛の人は再び使えなくなります。陛下の度(考慮)を願います。」
安帝はこの諫言を聞き入れませんでした。
 
[十三] 『後漢書孝安帝紀からです。
十一月甲辰、安帝が上林苑で校猟(狩猟)をしました。
 
[十四] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
鮮卑の其至鞬が自ら一万余騎を率いて曼柏で南匈奴を攻撃しました。
南匈奴の薁鞬日逐王が戦死し、千余人が殺されました。
 
[十五] 『後漢書孝安帝紀』からです。
この年、蜀郡の西部を分けて属国都尉にしました。
 
[十六] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月戊辰(初四日)、京師と三つの郡国で地震がありました。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
汝南の人周燮と南陽の人・馮良は学行深純(学識が深くて行動が純正なこと)でしたが、隠居して仕官しませんでした。しかしその名声が世に知られていたため、陳忠が推挙しました。
そこで安帝が玄纁(黒と赤の布)羔幣(羊と布。聘問で使う礼物です)を贈って二人を招きました。
周燮の宗族も仕官を勧めて言いました「徳を修めて行いを立てるのは国の為になることが目的です(夫脩徳立行所以為国)。君だけはなぜ東岡の陂を守っているのですか?」
資治通鑑』胡三省注によると、周燮は汝南安城に住んでいました。岡畔(岡のはし、はずれ)に先人の草廬があり、その下の陂田(山田)でいつも勤労に励んで自給していました。
周燮が答えました「道を修めた者は時を計って動くのものです(度其時而動)。動いてもその時ではなかったら、どうして享を得られるでしょう(どうして相応しいと言えるでしょう。原文「動而不時焉得享乎」)。」
 
周燮と馮良は車に乗って近県(居住地付近の県府)まで行きましたが、どちらも病と称して帰りました。
 
 
 
次回に続きます。