東漢時代189 順帝(二) 虞詡と張防 126年(2)

今回は東漢順帝永建元年の続きです。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
司隸校尉虞詡が着任して数カ月の間に、太傅馮石と太尉劉熹を弾劾する上奏を行って二人を罷免させました。
また、中常侍程璜、陳秉、孟生、李閏等を弾劾する上奏も行いました。
百官は虞詡を横目で見て(原文「百官側目」。「側目」は怒りや恐れを表します)「苛刻」と称しました。
そこで三公(司徒朱倀、司空陶敦、太尉朱寵)が上奏して虞詡を弾劾しました「虞詡は盛夏に多くの無辜(無罪)を拘繋(逮捕拘束)しており、吏民の患になっています。」
漢の法では、裁判や処刑は万物が生まれ育つ春と夏を避けて秋と冬に行うことになっています。三公は虞詡が盛夏に刑法を乱用していると訴えました。
 
虞詡が上書して自ら訴えました「法禁(法令禁制)とは俗の隄防(風俗の乱れを防ぐ堤防)であり、刑罰とは民の銜轡(民の行動を規制する手綱や轡)です。今、州は郡に任せていると言い、郡は県に任せていると言い、それぞれが遠くに責任を負わせているので(更相委遠)、百姓が怨み窮しています。(しかも今は)苟容(世におもねって保身すること)が賢とみなされ、尽節(節を尽くすこと)が愚とみなされています。臣が発挙(検挙)した案件において、臧罪(贓罪。貪汚の罪)は一つではありません(臣所発挙臧罪非一)。三府(三公)は臣に上奏されることを恐れたので誣罪を加えました。しかし臣は史魚の死に従って(倣って)尸諫(死諫。命をかけた諫言)するだけです。」
虞詡の上奏文を読んだ順帝は罪を下しませんでした(三公の上奏を退けました)
 
史魚について『資治通鑑』胡三省注が解説しています。衛の大夫史魚は病死する時、自分の子にこう言いました「私はしばしば蘧伯玉の賢才を進言したのに進めることができなかった。また、彌子瑕の不肖を進言したのに退けることができなかった。人臣と為りながら、生きている間に賢才を進めることができず、不肖を退けることもできなかったら、死んでから正堂で喪を治めるべきではない(正堂で葬儀を行うべきではない)。私の棺は部屋に置かれれば充分だ(殯我於室足矣)。」
本来、死者は正堂で棺に入れられて賓客の弔問を受けます。しかし史魚の棺が部屋に置かれたままだったため、衛の国君が理由を問いました。
そこで史魚の子が父の言葉を告げました。
衛君はすぐに蘧伯玉を招いて貴び、彌子瑕を叱責して退けてから、棺を正堂に移し、葬儀の礼を成して去りました。
 
後漢書虞傅蓋臧列伝(巻五十八)』には「順帝は虞詡の上奏文を読んで司空陶敦を罷免した」とあります。しかし陶敦が罷免されるのは十月です。胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「順帝は虞詡の上奏文によって陶敦の不直を知り、後に事件があったため、それを理由に罷免したはずだ(因事免之)。そうでなければ、三府が共に上奏したのに陶敦だけが罷免されるはずがない」と解説しています。
 
本文に戻ります。
中常侍張防が権勢を売弄(顕示、利用)しており、人々から請託(依頼)を受ける代わりに賄賂を受け取っていました(請託受取)
虞詡がこれを案件にしましたが、しばしば上奏しても取り上げられませんでした(屢寝不報)
虞詡は憤慨に堪えられず、自ら廷尉に繋がれて上奏しました「昔、孝安皇帝は樊豊を任用したため、嫡統を交乱(錯乱)させて危うく社稷を亡ぼすところでした(安帝延光三年124年参照)。今、張防もまた威柄を弄んでおり、国家の禍が重ねて至ろうとしています。臣は張防と朝(朝廷)を共にするのが忍びないので、謹しんで自らを繋いで報告し、臣が楊震の跡を襲わないようにします楊震のようにならないために、自らを繋いで報告します。原文「謹自繋以聞,無令臣襲楊震之跡」。楊震は諫言を繰り返したため自殺に追い込まれました)。」
 
上奏文が提出されると、張防が涙を流して順帝に訴えました。その結果、虞詡は罪に坐して「輸左校」に処されます。
資治通鑑』胡三省注によると、将作大匠の下に左校令がおり、左工徒を管理していました。「輸左校」は免官されて役徒になり、左校で輸作(労役)する刑です。
 
張防は必ず虞詡を害そうと欲し、二日の間で四回審問・拷問しました(伝考四獄)。獄吏が虞詡に自引(自殺)を勧めます。
しかし虞詡はこう言いました「(自殺するくらいなら)歐刀(処刑に使う刀。または良刀)に伏して遠近に示すことを願う(寧伏歐刀以示遠近)(秘かに)泣いて自殺しても誰に是非が分かるか(喑嗚自殺是非孰辨邪)。」
 
浮陽侯孫程と祝阿侯張賢が相次いで順帝に謁見を請いました。
孫程が言いました「陛下がかつて臣等と造事(事変。順帝を擁立した政変)したばかりの時は、常に姦臣を嫌い、(姦臣による)傾国を知っていました。しかし今即位してからは、また自らそうしています(先帝のように姦臣を庇っています)。どうして先帝を批難できるでしょう。司隸校尉虞詡は陛下のために忠を尽くしているのに、却って拘繋(逮捕)されており、常侍張防は臧罪(貪汚の罪)が明正(明証。明らかな証拠があること)なのに、逆に忠良を陥れています。今、客星(新星、または彗星)が羽林(『資治通鑑』胡三省注によると、羽林は四十五星で形成されており、営室南に位置します)を守っていますが、宮中に姦臣がいることの兆しです(其占宮中有姦)。急いで張防を収めて(逮捕して)獄に送り、そうすることで天変を塞ぐべきです。」
この時、張防は順帝の後ろに立っていました。
孫程が張防を叱咤して言いました「姦臣張防、なぜ殿から下りない(何不下殿)!」
張防はやむなく小走りで東箱(東廂)に移りました。
孫程が言いました「陛下は急いで張防を収める(逮捕する)べきです。阿母から求請(請願。命乞い)させてはなりません(無令従阿母求請)。」
資治通鑑』胡三省注によると、阿母は宋娥を指します。順帝の乳母です。
 
順帝は諸尚書に意見を求めました。
ところが、尚書賈朗がかねてから張防と親しくしていたため、逆に虞詡の罪を証明しました。
順帝は迷いを抱き、孫程に「暫く退出せよ。今考えているところだ(且出,吾方思之)」と言いました。
 
虞詡の子虞顗と門生百余人が幡()を掲げて中常侍高梵の車を待ちました。高梵が来ると叩頭して血を流しながら枉状(冤罪の状況)を訴えます。
高梵は入宮してからこれを順帝に話しました。
その結果、張防は罪に坐して辺境に送られ、賈朗等六人が処刑または罷免されました。
虞詡は即日釈放されます。
 
孫程が改めて上書して虞詡の大功を述べました。その言葉が甚だ切激(激烈)だったため、順帝は感悟(感動して悟ること)して再び虞詡を招き、議郎に任命しました。数日後には尚書僕射に昇格させます。
 
虞詡が上書して議郎南陽の人左雄を推挙しました「臣が見るに、今、公卿以下は大多数が拱黙(手をこまねいて黙ること)しており(類多拱黙)、樹恩(恩を築くこと。人との関係を善くすること)を賢とみなして尽節(節を尽くすこと)を愚とみなし、ひどい場合は互いに戒め合って『白璧のように潔癖になってはならない。寛容寛大であれば後の福が多くなる(白璧不可為,容容多後福)』と言っています。しかし伏して議郎左雄を見たところ、王臣蹇蹇(「蹇蹇」は「忠直」「忠誠」の姿です)の節があるので、抜擢して喉舌の官に置くべきです(資治通鑑』胡三省注によると、東都(東漢)尚書を「喉舌之官」と言いました。尚書は皇帝の言を下に伝えて、下の言を皇帝に伝えるからです)。そうすれば必ず匡弼(矯正輔佐)の益があります。」
順帝は左雄を尚書に任命しました。
 
 
 
次回に続きます。