東漢時代197 順帝(十) 左雄の上書 132年(2)

今回は東漢順帝陽嘉元年の続きです。
 
[十三] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
九月、順帝が郡国と中都官に詔を発し、全ての繋囚(囚人)から死一等を減らしました。また、亡命(逃亡)している者にはそれぞれ差をつけて贖罪させました。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
冬、耿曄が烏桓の戎末魔等(「戎末魔」は『資治通鑑』の記述で、『後漢書烏桓鮮卑列伝(巻九十)』では「烏桓の親漢都尉戎朱廆」としています)を派遣し、鮮卑を鈔撃(襲撃)しました。戎末魔等が大勝して帰還します(大獲而還)
 
鮮卑がまた遼東属国を侵したため、耿曄は屯兵を遼東無慮城に移して拒みました。
資治通鑑』胡三省注によると、遼東属国はかつては邯郷西部といい(邯郷西部都尉が治めていました)、安帝時代に属国に改められました(属国都尉が治めます)。昌遼、賓徒、徒河、無慮、険瀆、房の六城を管轄し、雒陽の東北三千二百六十里に位置します。無慮は毉無慮山からつけられた県名です。
 
尚、『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』は「遼東属国」ではなく、「遼東を侵した」としています。
 
[十五] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
十一月甲申、望都と蒲陰で狼が女子(女、子供)九十七人を殺しました。
順帝が詔を発して狼に殺された者に一人当たり銭三千を下賜しました。
 
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、望都と蒲陰は中山国に属します。蒲陰は本来、「曲逆」といいましたが、章帝が改名しました。「満陰」と書くこともありますが、「満」は「蒲」の誤りです。
 
『欽定四庫全書東観漢紀(巻三)』によると、北岳を祀らなかったために狼の被害が出たとみなされ、順帝が詔を発しました「政がその中(中庸)を失ったため、狼災が応じて、孤幼を残食することになった。広くこの故(原因)を訪ねると、山岳の尊霊は国が望秩(等級に合わせて行う山川の祭祀)するところなのに、連年、祭祀を行わず(比不奉祠)、淫刑(道理に合わない刑。または重刑)が放濫(氾濫)しているため、害が孕婦(妊婦)に加わったのである。」
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
尚書左雄が上書しました「昔、宣帝は官吏が頻繁に交代したら下の者が本業に安んじることができなくなり(吏数変易則下不安業)、事に就いて(着任して)久しければ民が服すようになる(久於其事則民服教化)と考えたので、政治(政事治理。政事上の実績)がある者はいつも璽書詔書によって勉勵(鼓舞激励)し、秩を増やして金を下賜し、公卿(三公九卿)に欠員が生まれたら順に(彼等を)用いました。そのおかげで吏がその職を全うし(吏称其職)、民がその業に安んじ、漢世の良吏(『資治通鑑』胡三省注は尹翁帰、韓延寿、朱邑、龔遂、黄霸の名を挙げています)は当時が最も盛んになりました(於茲為盛)
しかし今は典城百里百里を治める者。県令県長)でも転動(転勤・異動)に常(常道。秩序)がなく、それぞれ暫時の考えを抱くだけで(原文「各懐一切」。「一切」は「臨時」「暫時」の意味です)、長久の考慮がありません。しかも不辜(無罪)を殺害することを威風といい、税を集めて政務を行うことを賢能といい(謂殺害不辜為威風,聚斂整辦為賢能)、自分を治めて民を安んじることを劣弱とみなし、法を守って理に則ることを不治とみなし(以治己安民爲劣弱,奉法循理為不治)、髠鉗の戮(髪を剃ったり首枷等の刑具をつける刑)は睚眦(元は「怒って目を見開くこと」ですが、転じて「目を見開く程度の怒り」「些細な事」という意味になりました)から生まれ、覆尸(死体が地に倒れること。人を殺すこと。ここでは「死刑」を意味します)の禍は(一時の)喜怒から成っており、寇讎のように民を視て、豺虎のように税を取っています。監司(朝廷が派遣した監察の官吏)が前後に連なっていますが(項背相望)(地方の官員と)疾疢(疾病)を同じくしており、非を見ても挙げず、悪を聞いても察することなく(調査せず)、亭伝(旅舎)で政務を観て朞月(一年)の間に成果を上げさせ(責成於朞月)(地方官の)善について語っても徳を称えることがなく、功を論じても事実を根拠にすることがなく、虚誕(荒唐)な者が栄誉を獲て、拘検な者(慎み深い者)が誹謗に遭っています(離毀)。ある者は罪を犯したために自ら官を退いて崇高に見せ(因罪而引高)、ある者は色斯(本来は上の者の顔色を見て身を引くことですが、「隠遁」を指すようになりました。『論語』が出典です)によって名を求めているのに(色斯而求名)、州宰(州官)はこれを覆わず(詳しく調べず)(このような者達を)共に競って辟召(招聘)し、急速に昇官させて通常の者を越えています(踴躍升騰超等踰匹)。またある者は審理上奏によって逮捕されるべきなのに、逃亡して罪(罰)を受けず(考奏捕案而亡不受罪)大赦に遇ったら賄賂を行って再び(罪状が)洗い流されているため(会赦行賂復見洗滌)、朱紫が同色になり、清濁が分けられません。これが姦猾を枉濫(法を曲げて恣に行動すること)にさせており、(彼等は)去就(任官と免職)を軽忽(軽視)し、拝除(任免)は水が流れるようで(拝除如流)、欠員がいつも百を数えています(缺動百数)
郷官、部吏は職が賎しく禄が薄いので、車馬衣服が全て民から出ています。廉潔な者は足りるだけの物(不自由しないだけの物)を取っていますが、貪婪な者は(自分の)家を充たしており(廉者取足貪者充家)、特選横調(『資治通鑑』胡三省注によると、どちらも通常の賦以外の徴収です)が紛紛(雑乱の様子)として絶えることなく、送迎のために大量な費用を浪費し(送迎煩費)、政事を損なって民を傷つけています(損政傷民)。和気がまだ一つにならず(和気未洽)、災眚(災難)が消えない咎(咎の原因)は全てここにあります。
臣の愚見によるなら、守相・長吏で恵和(仁愛和順)かつ顕效(顕著な功績)がある者はその地で秩を増やし、移徙(異動)させるべきではありません。また、父母の喪以外では官から去らせてはなりません。逆に、法禁に従わず、王命を用いない者は(不式王命)終身禁固とし(錮之終身)、たとえ赦令に逢っても歯列(並列)してはなりません。もし劾奏(弾劾の上奏)を被ったのに逃亡して法に就かない者がいたら、家(家族)を辺郡に遷して後の者の懲らしめ(見せしめ)とします(以懲其後)。郷部の親民の吏(民に直接接する官吏)は皆、清白で従政(政事に参与すること)を任せられる儒生を用い、負算(未納の人頭税に対して寛大にして(原文「寛其負算」。『資治通鑑』胡三省注によると、儒生には品秩がないため、納税に対して寛大にさせました)、その秩禄を増やします。吏職が歳を満たしてから(着任して一年を満たしてから)、宰府(公府)州郡が辟挙(招聘、推挙)できるようにします。こうすれば威福の路を塞ぎ、虚偽の端(原因)を絶ち、送迎の役(労役、出費)を損ない、賦斂の源を止め、循理の吏(道理を守る官吏)が教化を完成させることができ(得成其化)、率土(全土)の民がそれぞれの場所で安寧になります(各寧其所矣)。」
 
順帝はこの進言に感じ入り、改めて「無故去官の禁(理由なく官を去ってはならないという禁令)」を宣言しました(改めて官吏が理由なく官を去ることを禁止しました)
また、有司(官員)に命じて吏治(官吏の政務実績)の真偽を査定させ、(政策の)施行について詳しく審理させました(下有司考吏治真偽詳所施行)
しかし宦官がこれらのことを不便(不利)としたため、結局実行できませんでした。
 
 
 
次回に続きます。