東漢時代198 順帝(十一) 孝廉 132年(3)

今回で東漢順帝陽嘉元年が終わります。
 
[十七] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
左雄がまた上書しました「孔子は『四十にして惑わず(四十不惑』と言い、『礼』は(四十を)強仕と称しています(『礼記曲礼上』に「四十は強といい、仕官する(四十曰強而仕)」とあります)。今後の孝廉においては、年が四十に満たない者は察挙(地方官の推挙)を得られないようにすることを請います。(察挙された孝廉は)皆まず公府を訪ね、諸生儒者なら家法(一家一門の学術)を試し、文吏なら箋奏(上奏文等の文書。『資治通鑑』胡三省注によると、群臣が天子に提出する文書には四種類がありました。「章」「奏」「表」「駮議」です。胡三省がそれぞれの説明をしていますが省略します)を課し(試験し)、副(副本)を端門に送って尚書が)虚実を練ることで(原文「練其虚実」。「練」の意味が分かりません。文脈からは「吟味する」という意味だと思われます。『資治通鑑』胡三省注によると、宮城の正南の門を「端門」といい、ここで尚書が天下の章奏を受け取りました。孝廉に挙げられた者はまず公府で試験を行い、副本を端門に送って尚書の審査を受けました)異能を観察し、風俗を美化します。科令(法令、規定)を守らない者がいたら、その罪法を正します(法に則って処罰します。原文「正其罪法」)。但し、もし茂材異行(特殊な才能を持った人材)がいたら、当然、年歯(年齢)にこだわる必要はありません。」
順帝はこれに従うことにました。
 
しかし胡広、郭虔、史敞が上書して反対しました「選挙とは才を根拠にするものであり、定制に拘るものではありません(凡選挙因才無拘定制)。六奇の策は経学から出たのではなく、鄭阿の政は必ずしも章奏にあったのではありません(原文「六奇之策不出経学。鄭阿之政非必章奏」。「六奇の策」は陳平の故事です。陳平は六の奇計を出して高帝を輔佐しました(高帝七年200年参照)。「鄭阿」は鄭の名相子産と東阿を治めた斉の晏子です。「鄭阿之政非必章奏」というのは、「子産と晏子の政治が優れていたのは、章奏を書く能力があったからではない」という意味です)。甘奇が顕用(重用)された時は年が強仕(四十歳)から離れており、終賈が名声を揚げた時も、まだ弱冠でした(甘奇は甘羅と子奇です。『資治通鑑』胡三省注によると、秦の甘羅は十二歳で使者として趙に行き、趙が五城を割いたので上卿に封じられました。斉の子奇は十八歳で東阿を治めて大いに教化しました。終軍は十八歳で使者として南越に行くことを名乗り出たため、武帝が喜んで諫大夫に任命しました。賈誼は十八歳で名声が知られ、文帝に抜擢されました)。前世(先の時代)以来、貢挙(選挙、推挙)の制は回革(改変)がないのに(莫或回革)、今、一臣の言によって旧章を剗戾(削除。違背)したら、便利がまだ明らかではなく、衆心も満たせません(便利未明衆心不厭)。誤りを正して常規を変えるのは(矯枉変常)、政治が重んじることです(政之所重)。それなのに台司(三公等の大臣)を訪ねず、卿士とも謀っていません。もし事を下した後に議者が剝異(反対)したとして、これを異としたら(否定したら)、朝廷が便を失い、これと同じくしても(賛同しても)、王の言が既に行われています(もし反対する者がいたとして、反対意見を否定して左雄の意見を実行したら、「矯枉変常」を重視していることにならず、朝廷に利がありません。逆にもし反対意見に賛同したら、皇帝の命令が既に実行されているので取り返しがつかなくなります。原文「若事下之後議者剝異,異之則朝失其便,同之則王言已行」)。臣の愚見によるなら、百官に宣下して同異(賛成と反対の意見)を参考にし、その後、勝否を覧択(確認選択)をして慎重にその衷(中庸。適切な内容)を採るべきです(参其同異然後覧択勝否詳采厥衷)。」
順帝はこの意見を却下しました。
 
辛卯(中華書局『白話資治通鑑』は「辛卯」を恐らく誤りとしています)、順帝が令を下しました「郡国が孝廉を挙げる時は、年を四十以上に制限する。諸生なら章句に通じており、文吏なら牋奏(奏章)の能力がある者が、選(選挙推挙)に応じることができる。但し、顔淵顔回孔子の弟子)や子奇のような茂才異行がいたら、年歯に拘る必要はない。」
 
久しくして、広陵が徐淑を孝廉に推挙しましたが、四十に達していませんでした。
台郎(『資治通鑑』胡三省注によると、尚書郎です)がこれを詰問すると、徐淑は「詔書は『顔回や子奇のような者がいたら、年歯に拘る必要はない』と言っています。だから本郡は臣を選に充てたのです」と答えました。
台郎は徐淑を屈服させることができません。
そこで左雄が詰問して言いました「顔回は一を聞いて十を知ったが(聞一知十)、孝廉(徐淑)は一を聞いて幾つ知ることができるか?」
徐淑は答えられなかったため、孝廉から外されて故郷に還されました。
郡守も責任を負って罷免されました。
 
左雄は公直精明で真偽を審覈(審査)する能力があり、意志を決して実行しました。
暫くして、胡広が朝廷を出て済陰太守に着任しましたが、諸郡守十余人と共に誤った推挙をした罪で罷免されました(坐謬挙免黜)
汝南の人陳蕃、潁川の人李膺、下邳の人陳球等三十余人だけが郎中に任命されます。
この後、牧守は戦慄して軽率に推挙しなくなり、永嘉(沖帝の年号)に至るまで、察選(選挙)は清平で、多数の相応しい人材が得られました。
 
[十八] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
十二月丁未、東平王劉敞(孝王)が死にました。
 
劉敞の父は懐王劉忠で、劉忠の父は劉蒼(「献王」。または「憲王」)、その父は光武帝です。
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉敞の死後、子の頃王劉端が継ぎました。
東平王の家系は長寿が多く、劉忠の在位年数は十一年でしたが、劉蒼は四十五年、劉敞は四十八年、劉端は四十七年でした。劉端の子劉凱も在位年数が四十一年にわたり、漢が魏に滅ぼされてから、崇徳侯に遷されました。
 
[十九] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
庚戌、再び玄菟郡に六部の屯田を置きました。
 
[二十] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
閏十二月丁亥(十五日)、順帝が令を下しました。詔によって郎に任命され、年が四十歳以上で孝廉科と同じように課試(試験)を通った者は、廉選(察挙。孝廉の選挙)に参加できて、毎年一人が選ばれることになりました(令諸以詔除為郎年四十以上課試如孝廉科者,得参廉選歳挙一人)
 
[二十一] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
戊子(十六日)、客星(新星。または彗星)が天苑に現れました。
 
[二十二] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
辛卯(十九日)、順帝が詔を発しました「最近、吏政が不勤なため(勤労、慎重ではないため)、災咎がしばしば至り、盗賊も多く存在している。その理由を反省するに(退省所由)、皆、選挙が不実で、官がその人ではないため(官員の人選が相応しくないため)、天心をまだ得られず、人情に怨が多い。『書尚書』は股肱を歌い、『詩詩経』は三事(三事大夫。西周の大臣)を風刺している。今、刺史二千石の選は三司(三公)に任を帰している(委任している)。序列の前後を選び、高低を詳しく審査し、歳月の次(歳月の順序、序列。恐らく政務を経験した歳月の長短です)、文武の宜(文官が相応しいか武官が相応しいか)において務めて衷(中庸。適切)を保て(簡序先後精覈高下,歳月之次文武之宜務存厥衷)。」
 
[二十三] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
庚子(二十八日)、恭陵(安帝陵)の百丈廡(廊屋。廊下)で火災がありました。
 
[二十四] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
この年、西苑の建設を開始し、宮殿を修飾しました。
 
[二十五] 『後漢書宦者列伝(巻七十八)』からです。
この年、宜城侯孫程が病を患い、症状が悪化しました。順帝は孫程に奉車都尉の官位を与えて位を特進にします。
孫程が死ぬと五官中郎将を派遣して車騎将軍を追贈し、印綬を与えました。また、剛侯の諡号を下賜しました。
 
 
 
次回に続きます。