東漢時代209 順帝(二十二) 南匈奴の乱 140年
今回は東漢順帝永和五年です。
東漢順帝永和五年
庚辰 140年
夏四月庚子、中山王・劉弘が死にました。
南匈奴左部の句龍王・吾斯と車紐等が反して西河を侵しました(「句龍王・吾斯」は『後漢書・南匈奴列伝(巻八十九)』と『資治通鑑』の記述です。『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』はここでは「南匈奴左部の句龍大人・吾斯」としており、順帝漢安元年・142年には「南匈奴左部の大人・句龍・吾斯」と書いています)。
吾斯等は右賢王を誘って兵を併せ、美稷を包囲しました。
朔方と代郡の長吏が殺されました。
しかし吾斯等は再び兵を集結させて城邑を攻略します。
ちょうどこの時、梁並が病のため朝廷に呼び戻されました。五原太守・陳亀が代わって中郎将になります。
陳亀は更に単于の近親を内郡に遷そうとしました。そのため投降した者達が疑って不安を抱きます。
大将軍・梁商が上書しました「匈奴は寇畔(背反侵略)しましたが、自分の罪が大きいことを理解しています(自知罪極)。困窮した鳥や獣でも皆、死から助かろうとすることを知っています(窮鳥困獣皆知救死)。種族が繁栄していたらなおさら消滅させることはできません(況種類繁熾不可単尽)。今は転運(輸送)が日に日に増えて三軍が疲苦しており、内を空虚にして外に(物資を)供給していますが(虚内給外)、これは中国の利ではありません。度遼将軍・馬続はかねてから謀謨(計謀)があり、しかも辺境を管理して久しく(典辺日久)、深く兵要(兵法)に通暁しており、いつも馬続の書を得ると臣の策と符合しています。馬続に命じて溝を深くし塁を高くさせ、恩信によって招降し、購賞(懸賞。褒賞)を宣示して、明らかな期約(期限の約束)を作らせるべきです(期限内に投降したら褒賞を与えることを明言させるべきです)。このようにすれば、醜類(背反した者)を服すことができ、国家に事(変事)がなくなります。」
梁商は馬続等にも書を送りました「中国は安寧になり、戦を忘れて久しくなる(忘戦日久)。良騎が野で合し(良騎が野で合戦し。『資治通鑑』では「良騎夜合」ですが、『後漢書・南匈奴列伝(巻八十九)』では「良騎野合」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)、武器を交えて矢に接し(交鋒接矢)、短時間で勝敗を決するのは(決勝当時)、戎狄が長(得意)として中国が短(苦手)とすることだ。強弩を持って城壁に上り、堅営を固守して衰えを待つのは、中国が長として戎狄が短とすることだ。務めて長とすることを優先し、その(相手の)変化を観察して、購賞を設け(設購開賞)、(招降の意を)宣示して反悔(後悔、反省)させるべきだ。小功を貪って大謀を乱してはならない。」
馬続が梁商の言葉を実行した結果、右賢王部・抑鞮等一万三千口が皆、馬続を訪ねて投降しました。
己丑晦、日食がありました。
しかし二人は天性(性格)が虐刻(暴虐残刻)で擾発(侵害・徴発)が多かったため、且凍種や傅難種の羌人が反しました。
来機等は共に罪に坐して召還されました。
朝廷は馬賢を征西将軍に、騎都尉・耿叔を副(副将)に任命し、左右羽林五校士および諸州郡の兵十万人を率いて漢陽に駐屯させました。
丁丑(月は書かれていません)、死罪以下の囚人および亡命(逃亡)している者にそれぞれ差をつけて贖罪させました。
九月、扶風と漢陽に命じて隴道に三百カ所の塢(営塁)を築かせ、屯兵を置きました。
辛未(十四日)、太尉・王龔が老病のため罷免されました。
且凍羌が武都を侵して隴関(隴山の関)を焼きました。
壬午(二十五日)、太常・桓焉を太尉にしました。
その後更に并・涼・幽・冀四州を寇掠(侵略・略奪)しました。
丁亥(三十日)、東漢が西河の治所を離石に(『資治通鑑』胡三省注によると、離石は西河に属す県です。西河郡の元の治所は平定県にありましたが、今回、離石に遷されました)、上郡の治所を夏陽に、朔方の治所を五原に遷しました。
張耽は馬邑で戦って三千級を斬首し、多くの生口(捕虜)を獲ます。
最後の部分は、『資治通鑑』では「十二月」ですが、『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』では「冬十一月辛巳、使匈奴中郎将・張耽を派遣してこれを撃破し、車紐が降った」と書かれています。『後漢書・南匈奴列(巻八十九)』には「冬」としか書かれていないため、何月かははっきりしません。
次回に続きます。