東漢時代215 順帝(二十八) 順帝の死 144年(1)

今回は東漢順帝建康元年です。二回に分けます。
 
東漢順帝建康元年
甲申 144
四月に改元します。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
春正月辛丑、順帝が詔を発しました「隴西、漢陽、張掖、北地、武威、武都では去年九月以来、地が百八十回震え(地百八十震)、山谷が坼裂(裂開)し、城寺(城壁や官署)が壊敗して、民庶(民衆)が殺害された(前年参照)。しかも夷狄が叛逆し、賦役が重数で賦役の負担が重いうえに頻繁で)、内外で怨曠しているので(内外で家族が引き離されているので。「怨曠」は長期離別すること、または男に妻がおらず、女に夫がいないことです)、咎(天譴。災害)を思って嘆息している。よって光禄大夫を送って案行(巡視)させ、恩沢を宣暢(宣揚流布)する。下民を恵み(または「下民を愛し」。原文「恵此下民」)、煩擾(混乱させること。または負担をかけること)を為してはならない(勿為煩擾)。」
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
三月庚子、沛王劉広が死にました。
 
劉広の諡号は孝王です。節王劉正の子で、劉正は釐王劉定の子、献王劉輔の孫、光武帝の曾孫です。『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉広の死後、幽王劉榮が継ぎました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
護羌従事馬玄が諸羌に誘われたため、(塞内の)羌衆を率いて塞外に逃亡しました。
しかし領護羌校尉衛琚が馬玄等を追撃して破り、八百余級を斬首しました。
 
趙沖も叛羌を追って建威鸇陰河に到りました。
後漢書孝順孝沖孝質帝紀』では、衛琚を「領護羌校尉(護羌校尉兼任)」、趙沖を「護羌校尉」としており、「護羌校尉」が二人いたことになります。『資治通鑑』は衛琚を「領護羌校尉」としていますが、この時の趙沖の官名は書いていません。ここは『資治通鑑』に従いました。
また、『資治通鑑』胡三省注によると、「建威」は「武威」と書くこともあります。「鸇陰」に関しては「県名で安定郡に属す」という説と、「涼州姑臧県東南に鸇陰県故城があり、水(鸇陰河)によって県の名になった」という説があります。「建威」ではなく「武威」が正しいとしたら、「涼州姑臧県東南の鸇陰県」とする説が相応しいようです。姑臧県は武威郡に属します。
 
趙沖軍が渡河を終えた時、趙沖が率いていた降胡六百余人が離反して逃走しました。
趙沖は数百人を率いて追撃しましたが、羌の伏兵に遭遇し、戦没しました。
 
趙沖は戦死しましたが、前後して多数の羌人を斬獲したため、羌も衰退しました。
順帝は詔を発して趙沖の子を義陽亭侯に封じました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
南郡と江夏の盗賊が城邑を侵略略奪しましたが、州郡が討伐して平定しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月、使匈奴中郎将馬寔が南匈奴左部を撃って破りました。
資治通鑑』胡三省注によると、左部は昨年殺された句龍吾斯の党です。
 
この後、胡(匈奴)・羌・烏桓が全て馬寔を訪ねて投降しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
辛巳(十五日)、皇子劉炳を太子に立てました。
資治通鑑』胡三省注によると、劉炳は虞貴人の子です。
 
漢安二年から建康元年に改元して天下に大赦し、人()にそれぞれ差をつけて爵位を下賜しました。
 
太子は承光宮に住み、順帝は侍御史种暠に太子の家を監督させました。
中常侍高梵が単駕(一輌の車)で太子を迎えに来たことがありました(原文「中常侍高梵従中単駕出迎太子」。順帝が太子を招いたようです)
太傅杜喬等は疑いを抱いたため、高梵の指示に従いたくありませんでしたが、決断できませんでした。
しかし种暠が手に剣を持って車を塞ぎ、「太子は国の儲副(後嗣)であり、人命(民の命)に関わるところである(人命所係)。今、常侍が来たが詔信(詔と符信。または信用できる詔書がない。どうして姦によるものではないと分かるか(何以知非姦邪)?今日は死があるのみだ(命をかけて太子を守る。原文「今日有死而巳」)」と言いました。
高梵は言葉に詰まって回答できず、車を駆けさせて帰り、順帝に報告しました。
やがて順帝の詔が伝えられたため、太子はやっと承光宮を出ました。
 
杜喬は退いてから嘆息し、事に臨んでも惑わされない(乱れない)种暠に自分が及ばないことを慚愧しました。
順帝も种暠の持重(落ち着いていて慎重なこと)な姿を嘉して久しく称賛しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
秋七月丙午、清河王劉延平が死にました。
 
劉延平は楽安夷王劉寵の子で、劉寵は千乗貞王劉伉の子、劉伉は章帝の子です。
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉延平の諡号は恭王で、子の劉蒜が継ぎました。劉蒜は後に罪に坐して尉氏侯に落とされ、自殺します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
揚州と徐州では盗賊が相次いで蜂起し、年を重ねて割拠していました(盤互連歳)
秋八月、九江の范容、周生等が城邑を寇掠(侵略略奪)して歴陽を占拠し、その地に駐屯して江淮の巨患になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、歴陽県は九江郡に属します。
 
朝廷は御史中丞馮緄を派遣し、州兵を監督して討伐させました。
 
後漢書孝順孝沖孝質帝紀』は「八月、楊()徐の盗賊范容、周生等が城邑を寇掠した。御史中丞馮赦を派遣し、州郡の兵を監督してこれを討たせた」と書いています。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』では「馮緄(または「馮赦」)」は「馮放」です。『資治通鑑』は『後漢書張法滕馮度楊列伝(巻三十八)』に従って「馮緄」としています。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
庚午(初六日)、順帝が玉堂前殿で死にました。三十歳でした。
順帝は遺詔によって、(寝廟)を建てないこと、故服(恐らく古い服、現有の服)を使って棺に収めること(斂以故服)、珠玉や玩好(玩賞の物)は全て副葬しないことを命じました。
 
太子劉炳がわずか二歳で皇帝の位に即きました。これを沖帝といいます。
 
梁皇后を尊んで皇太后にしました。沖帝が幼いので太后が朝政に臨みます太后臨朝)
 
丁丑(十三日)、太尉趙峻を太傅に、大司農李固を太尉に任命し、二人に尚書の職務を主管させました(参録尚書事)
 
九月丙午(十二日)、孝順皇帝を憲陵に埋葬しました。廟号は敬宗です。
後漢書孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、憲陵は洛陽(雒陽)西十五里に位置し、陵の高さは八丈四尺、周囲は三百歩ありました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
この日(九月丙午)、京師と太原、雁門で地震があり、三郡で水が湧いて土(地面)が裂けました。
 
 
 
次回に続きます。