東漢時代217 沖帝(一) 早逝 145年(1)
今回から東漢沖帝の時代です。
孝沖皇帝
劉炳といい、順帝の子です。
順帝建康元年(前年)に皇太子に立ち、同年八月庚午(初六日)、二歳で皇帝の位に即きました。
虞美人は良家の子として十三歳で選ばれて掖庭に入りました。『皇后紀下』の注によると、虞美人の父・虞詩は郎中になり、虞詩の父・虞衡は屯騎校尉を勤めました。
虞美人は劉炳の他に舞陽長公主も生みました。
漢が興きてから、母氏が尊寵されなかったことはありませんでしたが、虞美人は順帝によって「美人」の爵号を加えられたわけではなく、沖帝も早夭(早死)し、しかも大将軍・梁冀が政権を握って他族を嫌ったため、権力を抑えられて太后の位に登ることなく、「大家」と呼ばれただけでした。
沖帝の時代は一年で終わります。
東漢沖帝永嘉元年
乙酉 145年
春正月戊戌(初六日)、沖帝が玉堂前殿で死にました。わずか三歳です。
揚州や徐州の盗賊が旺盛だったため、梁太后は京師に招いた諸王侯が到着してから喪を発しようとしました。
しかし太尉・李固が反対して言いました「帝は幼少でしたが、それでも天下の父でした。今日、崩亡(崩御)したので、人(民)も神も心を動かされています(人神感動)。どうして人子(臣子)でありながら逆に共同して(君父の死を)隠すということがあるのでしょうか(豈有人子反共掩匿乎)。昔の秦皇沙丘の謀(秦始皇帝三十七年・前210年)および近日の北郷の事(安帝延光四年・125年)はどちらも秘して喪を発しませんでした。これは天下の大忌(禁忌)であり、最もしてはならないことです(不可之甚者也)。」
梁太后はこの言葉に従ってその日の暮に喪を発しました。
劉蒜の父は清河恭王・劉延平で、劉延平と劉鴻はどちらも楽安夷王・劉寵の子、千乗貞王・劉伉(章帝の子)の孫です。
清河王・劉蒜は為人が厳重(厳粛慎重)で、動止(行動)に法度があったため、公卿が皆帰心していました。
李固が大将軍・梁冀に言いました「今、帝を立てるに当たって、長年(年長)かつ高明で徳があり、親政を任せられる者(自ら政事を行える者。原文「任親政事者」)を択ぶべきです。将軍が大計を審詳し(詳しく考慮し)、周・霍(西漢周勃と霍光)が文・宣(文帝と宣帝)を立てた道理を察して、鄧・閻(東漢の外戚・鄧氏と閻氏)が幼弱を利用した前例を戒めとすることを願います。」
しかし梁冀は進言に従わず、梁太后と共に禁中で策を定めました。
丙辰(二十四日)、梁冀が符節を持って王青蓋車(殤帝延平元年・106年参照)で劉纘を迎えに行き、南宮に入りました。
『資治通鑑』にはありませんが、『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』は「沖帝が病を患った時、大将軍・梁冀が帝(質帝。劉纘)を招いて洛陽(雒陽)の都亭に至らせた。沖帝が崩御すると、皇太后と梁冀が禁中で策を定めた。丙辰、(太后が)梁冀に符節を持たせ、王青蓋車で帝を迎えて南宮に入れた」と書いています。劉纘は洛陽都亭で待機していたようです。「都亭」は宿泊用の施設です。
劉蒜については詳しい記述がありませんが、清河王邸にいたと思われます。
丁巳(二十五日)、劉纘を建平侯に封じました。
同日、劉纘が皇帝の位に即きました。これを質帝といいます。年は八歳です。
劉蒜は封国に帰されました。
沖帝の山陵の地を択ぶ時、李固が言いました「今は処処に寇賊がおり、軍を興して出費が拡がっています(軍興費広)。新たに憲陵(順帝陵)を造ったら、賦税と徭役が一度ではすみません(賦発非一)。帝はまだ幼小だったので、憲陵(『資治通鑑』は「建陵」としていますが、『後漢書・李杜列伝(巻六十三)』では「憲陵」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)塋内(陵墓内)に陵を造って康陵(殤帝陵。殤帝延平元年・106年参照)の制度に則るべきです。」
梁太后はこの意見に従いました。
己未(二十七日)、孝沖皇帝を懐陵に埋葬しました。
しかし梁冀はこれを妬んで深く李固を嫌いました。
順帝時代は多くの官員の任命が序列に則っていませんでした。
そこで政治の実権を握った李固が上奏して百余人を罷免しました。
彼等は李固を怨み、同時に梁冀の意図に迎合するため(原文「希望冀旨」。この「希望」は「迎合」の意味です)、共に飛章(緊急の上奏文、または匿名の上奏文)を作って李固を誣告する上奏を行いました「太尉・李固は公事を利用して私利を貪り(因公假私)、正道のふりをして姦邪を行い(依正行邪)、近戚(皇族・外戚)を離間させ、自分の支党(党羽)を隆盛させています(自隆支党)。大行が殯にあり(原文「大行在殯」。「大行」は死んだばかりの皇帝、「殯」は棺に入れて正堂に安置することで、ここでは「先帝が崩御したばかり」という意味です)、路人が掩涕(顔を覆って泣くこと)しているのに、李固だけは胡粉(白粉。『資治通鑑』胡三省注によると、亀茲国で採れたため「胡粉」といいます)で貌を飾り、髪をとかして姿を装い、出処進退を自由にして、従容と歩を正し(慌てることなく儀容を正し。以上、原文は「胡粉飾貌,搔頭弄姿,槃旋偃仰,従容治歩」です。意訳しました)、惨怛傷悴(悲痛、悲傷)の心がありません。山陵がまだ完成していないのに旧政に違矯(違反)し、善(功績)は自分を称えて過ちは君(国君)に帰し(善則称己過則帰君)、近臣を排斥駆逐して葬送に侍ることができないようにしています(斥逐近臣不得侍送)。威福を為すのに(原文「作威作福」。本来は臣民に賞罰を与えることですが、臣下の専権専横を意味します)、李固のように甚だしかった者はいません。子の罪において父を累すこと(巻添えにすること、連座させること)ほど大きいものはなく(夫子罪莫大於累父)、臣の悪において君を誹謗することほど深いものはありません(臣悪莫深於毀君)。李固の過釁(過失、罪状)は、事が誅辟(死罪)に値します。」
九江の賊・徐鳳等が曲陽と東城を攻めて長(県長)を殺しました。
甲申、質帝が高廟を謁拝しました。
乙酉、光武廟を謁拝しました。
次回に続きます。