東漢時代219 沖帝(三) 金蛇 145年(3)

今回で東漢沖帝永嘉元年が終わります。
 
[十八] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、鮮卑が代郡を侵しました。
 
[十九] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
秋七月庚寅、阜陵王劉代が死にました。
 
劉代の諡号は節王で、父は懐王劉恢、祖父は頃王・劉魴、曾祖父は質王・劉延光武帝の子)です(順帝陽嘉元年132年参照)
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉代には子がいなかったため一時途絶えましたが、桓帝時代に劉代の兄劉便親(『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』では「劉便」です)が改めて封王されます。これを恭王といいます(桓帝建和元年147年参照)
 
[二十] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
廬江の盗賊が尋陽を攻め、また盱台を攻めました。
資治通鑑』胡三省注によると、尋陽県は廬江郡に、盱台県は下邳国に属します。
 
滕撫が司馬王章を派遣してこれを撃破しました。
 
[二十一] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月庚戌(二十二日)、太傅趙峻が死にました。
 
[二十二] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
冬十一月己丑(初二日)南陽太守韓昭が貪汚の罪に坐し、獄に下されて死にました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、韓昭は一億五千の賦を強制して集めたため(強賦一億五千万)、檻車で呼び戻されて獄に下されました。
 
[二十三] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
中郎将滕撫が進軍して広陵の賊張嬰を撃ちました。
丙午(十九日)、張嬰を破って千余人を斬獲しました。
丁未(二十日)、中郎将趙序が畏懦(敵を懼れること)と首級を増やして報告した罪に坐して棄市に処されました。
 
『欽定四庫全書東観漢記(巻二十)』には「趙序は銭縑三百七十五万を取った(横領・着服したのだと思われます。原文「取銭縑三百七十五万」)」とあります。
しかし『後漢書張法滕馮度楊列伝(巻三十八)』は「趙序が畏懦のため進まなかった罪と偽って首級を増やした罪に坐し坐畏懦不進,詐増首級)、召還されて棄市に処された」と書いており、『資治通鑑』はこれに従っています。
 
[二十四] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
歴陽の賊華孟が自ら黒帝と称し、九江太守楊岑を攻めて殺しました。
しかし滕撫が諸将を率いて進撃し、大破しました。華孟等三千八百級を斬って捕虜七百余人を獲ます。
 
こうして東南が全て平定されました。
滕撫は兵を整えて凱旋し(振旅而還)、左馮翊に任命されました。
 
[二十五] 『資治通鑑』からです。
永昌太守劉君世が黄金で文蛇(模様がある蛇)を鋳造して大将軍梁冀に献上しました。
しかし益州刺史种暠がこれを糾弾して逮捕し、伝(駅車。駅馬)を駆けさせて朝廷に報告しました。
そのため梁冀が种暠を恨むようになりました。
 
ちょうどこの頃、巴郡の人服直(『資治通鑑』胡三省注によると、服氏は周の内史叔服の後代です。漢代に江夏太守服徹がいました)が党衆数百人を集めて自ら天王を称しました。
种暠と太守応承が討捕(討伐)しましたが、勝つことができず、逆に吏民の多くが傷害を被ります。
梁冀はこれを機に种暠を陥れ、二人を逮捕して京師に連れて来させました。
 
李固が上書しました「臣が伏して聞くに、討捕して傷害を被ったのは(討捕所傷)、元々种暠と応承の意ではなく、実際には県吏が法に坐して罪を得ることを懼れ、(民を)駆使して深く苦しめたため、この不詳を招いたとのことです(県の官吏が罪を問われることを懼れ、敵の状況を把握していないのに民を駆使して戦ったため、大きな損害を招きました。原文「懼法畏罪,迫逐深苦致此不詳」。「不詳」は「把握していないこと」または「不祥」に通じて「不吉、不善」の意味です)。最近は盗賊が群起(蜂起)しており、処処で(各地で)絶えることがありません。种暠と応承は大姦を最初に挙げたのに、前後して罪を受けています。臣は州県の糾発(糾弾)の意を沮傷(挫折)させ、今後は共に虚飾隠匿して心を尽くす者がいなくなること(更共飾匿莫復尽心)を懼れます。」
上奏文を読んだ梁太后は种暠と応承の罪を赦し、官を免じるだけとしました。
金蛇は司農に送られます。
 
資治通鑑』胡三省注によると、大司農は銭穀金帛を管理するので、金蛇を保管することになりました。
後漢書張王种陳列伝(巻五十六)』は「二府は(梁冀を)恐れて(金蛇の事を)調査しなかった(二府畏懦不敢按之)」と書いており、ここでは金蛇の件が処理されなかったかのように読めます。
しかし『後漢書李杜列伝(巻六十三)』には「永昌太守劉君世が金蛇を梁冀に贈ったため、益州刺史种暠が弾劾した。事が発覚してから金蛇は司農に送られた」と書かれています。
資治通鑑』は『李杜列伝』に従っています(胡三省注参照)
 
梁冀が金蛇を観るために大司農杜喬から借りようとしましたが、杜喬は渡しませんでした。
また、梁冀の小女(幼い娘)が死んだ時、梁冀が公卿に命じて喪(葬礼)に参加させましたが、杜喬だけは行きませんでした。
これらの事があったため杜喬も梁冀から憎まれるようになりました。
 
 
 
次回から質帝の時代です。