東漢時代220 質帝(一) 太学の振興 146年(1)

今回から東漢質帝の時代です。一年で終わります。
 
孝質皇帝
劉纘といいます。父は楽安王劉鴻(後に勃海王に遷されます。諡号は孝王です)、母は陳夫人です。
劉鴻の父は楽安夷王劉寵、劉寵の父は千乗貞王劉伉で、劉伉の父は章帝なので、質帝は章帝の玄孫に当たります。
陳夫人は『後漢書皇后紀下』によると魏郡の出身です。若い時に声伎として孝王宮に入り、寵幸を受けて質帝を生みました。しかし梁氏が原因で栄寵を得られませんでした。
 
沖帝永嘉元年(前年)春正月戊戌(初六日)、沖帝がわずか三歳で死にました。
沖帝が病を患った時、大将軍梁冀が帝(質帝。劉纘)を招いて洛陽(雒陽)の都亭に至らせました。沖帝が崩御すると、皇太后と梁冀が禁中で策を定め、丙辰(二十四日)(太后)梁冀に符節を持たせて、王青蓋車で帝を迎えて南宮に入れました。
丁巳(二十五日)、劉纘を建平侯に封じました。
同日、劉纘が皇帝の位に即きました。年は八歳です。
 
前年の出来事は既に書いたので、再述は避けます。
 
 
東漢質帝本初元年
丙戌 146
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
春正月丙申、(梁太后が)詔を発しました「昔、堯は四子(『孝桓帝紀』の注は「羲仲、羲叔、和仲、和叔」としています)に命じて天道を敬いました(昔堯命四子以欽天道)。『鴻範』九疇には休咎の象があります(原文「鴻範九疇休咎有象」。『鴻範』は『洪範』ともいい、『尚書』に収められている文章で、「天下を治める大法」という意味です。「九疇」は九つの種類です。「休咎」の「休」は「美」に通じ、「休咎」は「美徴と悪徴」「瑞祥と災異」を意味します。『尚書洪範』の第八に「庶徵(諸兆候)」として「休徵(美徴)と咎徵(悪徴)」について書かれています)。瑞(瑞祥。美徴)とは和によって降り、異(変異。悪徴)とは逆が原因で感じるものです(政治が和していれば瑞祥が降り、政治が道から外れていたら天が感応して変異をもたらします)。禁じることが微小でも応じるところが大きいので(小さな禁忌でも道理を失ったら天が大きく感応して天譴をもたらすので)、前聖(帝堯等の聖人)が重視するところとなりました(禁微応大前聖所重)
最近は州郡が憲防(法令)に対して軽慢で、競って残暴を示し、科條(法令。条例)を造設(新設)して無罪を陥れています。あるいは喜怒によって長吏(県官)を駆逐し、私情によって恩恵を与えて阿諛追従し(恩阿所私)、法を曲げて仇隙(仇敵)を罰しているため(罰枉仇隙)(害を被った者に)(宮闕)を囲んで訴訟させるようになっており、前後が絶えません。故人(旧人)を送って新人を迎えたら(州郡の長が交代する度に)、人々がその害を被り、怨気が和を傷つけ、そのために災眚(災難)を到らせています。『書尚書康誥)』はこう言っています『明徳は刑罰を慎重にする(明徳慎罰)。』今はちょうど春東作(春耕)の時に当たり、生物が微小なので、始めを敬うべきです(育微敬始)。よって有司に勅令し、罪が殊死(死刑)ではない者は暫く案験(審問)せず、そうすることで寛恕を崇めることにします(以崇在寛)。」
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
壬子、広陵太守王喜が賊を討伐して逗留した罪に坐し(坐討賊逗留)、獄に下されて死にました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
二月庚辰、(太后)詔を発しました「九江、広陵の二郡がしばしば寇害を被り(『孝桓帝紀』の注によると、張嬰と華孟の挙兵によります)、残夷(惨殺)が最も甚しく、生者はその資業(財産職業)を失い、死者は尸を原野に委ねています。昔の為政では、一物がその所を得られなかったら、(為政者)自身がそれを為したとみなしました。我が元元(民衆)がこの困毒に遭遇しているのでなおさらのことです(古の為政者は、一人でも民が居場所を得られなかったら自分の責任にしました。今は多くの民衆が困窮禍害に遭遇しているので、自分の罪とするのはなおさらのことです。原文「昔之為政,一物不得其所,若己為之。況我元元嬰此困毒」)。ちょうど春の戒節(月令を告知する時期)に当たり、乏戹(欠乏、困苦)を賑済(救済)して骼(枯骸。朽ちた遺骨)や胔(腐肉。腐った死体)を埋葬する時です(掩骼埋胔之時)。よって近隣する郡の現有の穀を調達して窮弱に出稟(倉庫を開いて穀物を与えること)し、枯骸を收葬して務めて理卹(憐憫。救済)を加え、そうすることで朕の意をかなえなさい(以称朕意)。」
 
「月令」は月ごとに決められた指示・訓戒です。『礼記月令』の「孟春之月」に「慶を行って恵みを施し、下は兆民(万民)に及ぼす(行慶施恵下及兆民)」「骼を覆って胔を埋める(掩骼埋胔)」とあります。
詔は二月に出されましたが、「孟春」は正月なので、実際に書かれたのは正月だったのかもしれません。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月庚辰(二十五日)、郡国に令を下し、五十歳以上、七十歳以下の「明経儒学の経典に精通した者)」を挙げて太学に送らせました。大将軍以下、六百石に及ぶ官員にも皆、子を送って授業を受けさせ、一年を満たしたら試験を行い(歳満課試)、高第(成績が優秀な者)五人を郎中に、次(高第に次ぐ者)五人を太子舍人に任命することにしました。
また、千石六百石や四府の掾属(下述します)、三署郎(五官署郎と左右署郎。『資治通鑑』胡三省注によると、光禄勳に属します)、四姓小侯外戚で正式に諸侯になっていない者。下述します)の中で先に経典に精通できた者は、それぞれ家法(師の教え)に従わせ(『孝桓帝紀』の注によると、例えば儒生で『詩』に通じた者は「詩家」と呼び、『礼』に通じた者は「礼家」と呼びました)、高第の者(成績が優秀な者)は名牒(名札。氏名を記した文書)を提出させて順に褒賞抜擢しました。
この後、遊学する者が増盛して太学の生徒が)三万余人に上りました。
 
「四府の掾属」は『孝桓帝紀』の注によると、大将軍府の掾属二十九人、太尉府の掾属二十四人、司徒府の掾属三十一人、司空府の掾属二十九人を指します。
「四姓小侯」の「四姓」は、東漢初期は「樊馬」の四氏でしたが、質帝当時は異なるはずです。『資治通鑑』胡三省注は「当時は梁氏が四姓に入っているはずだ。陰氏、竇氏諸后の族で衰廃した者が四姓に含まれるとは限らない(未必得預也)」と書いています。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月庚寅(初六日)、楽安王劉鴻を勃海王に遷しました。
 
劉鴻は質帝の父です。楽安国は土地が低くて湿度が高く、租委(田賦)が少なかったため、渤海国に遷されました(安帝建光元年121年参照)
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
海水が溢れて民居を漂没させました。
 
戊申(二十四日)、朝廷が謁者を派遣して案行(巡視)させ、楽安と北海の人で海水に漂没して死んだ者を收葬(回収埋葬)させました。また、貧羸(貧困な者や弱者)に食糧を与えて救済しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
庚戌(二十六日)、太白が熒惑を侵しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月丁巳(初三日)、天下に大赦しました。
民に爵位と粟帛をそれぞれ差をつけて下賜しました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代221 質帝(二) 質帝暗殺 146年(2)