東漢時代222 質帝(三) 朱穆 146年(3)

今回で東漢質帝本初元年が終わります。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
斉王劉喜が死にました。
 
劉喜の諡号は頃王です。
斉王は劉章(哀王。光武帝の兄劉縯の子)の家系で、劉喜の父は恵王劉無忌です(和帝永元二年90年および順帝永和六年141年参照)
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉喜の死後、子の劉承が継ぎました。劉承は献帝時代(建安十一年206年)に国を廃されます。あるいは、斉王国が廃された時、劉承は既に死んでいたのかもしれません(再述します)

[十一] 『後漢書桓帝紀』からです。
辛巳(二十八日)桓帝が高廟と光武廟を謁拝しました。
 
[十二] 『後漢書桓帝紀』からです。
丙戌(恐らく誤りです)(梁太后が)詔を発しました「孝廉・廉吏は皆、典城牧民(「典城」は訴訟を裁くこと、または城邑を治めること、「牧民」は民を治めることです)、禁姦挙善(奸悪を禁じて善行を挙げること)すべきであり、興化の本は常にここから起きるものです。ところが、詔書を連下して(繰り返して詔書を下して)(この意図を)明白にし、懇切に述べているのに(分明懇惻)、在所(孝廉・廉吏の所在地)は翫習(厳粛ではないこと。または習慣になること)して怠慢に至り、選挙が乖錯(混乱。道理から外れること)して害が元元(民衆)に及んでいます。最近、頗る縄正(糾正。改正)しましたが、まだ懲改(過失を反省して改めること)していません。今は淮夷がまだ消滅せず(未殄)、軍師(軍隊)がしばしば出ており、百姓が疲悴(疲弊衰弱)して徵発に困苦しています。群吏が我が労民を恵み、貪穢(貪汚)を蠲滌(除去)して、休祥(美祥。瑞祥)を祈ることを庶望(希望。期待)します。ここに令を下し、秩が百石を満たして十歳以上(官位に就いて十年以上)かつ殊才異行(特殊な能力や品行)の者が参選(官吏の選抜対象になること)でき、臧吏(貪汚の罪を犯した官吏)の子孫は察挙(推挙)できないことにします。邪偽請託の原(姦邪、虚偽による請託の根源。「原」は「源」です)を杜絶し、廉白で道を守っている者がその操(節操)を伸展できるようにします。それぞれ自分の職責を明らかにして守りなさい(各明守所司)。今後の状況を観察します(将観厥後)。」
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
大将軍掾朱穆が梁冀に文書を提出して戒めました(奏記勧戒)「明年は丁亥の歳なので刑徳が乾位で合います(刑罰と恩徳が北宮に集まります。『資治通鑑』胡三省注によると、太歳(暦の基礎になる仮想の星)が丁壬にある時は歳徳(一年の徳)が北宮にあり、太歳が亥卯にある時は歳刑(一年の刑)が北宮にありました。「乾位」は西北を指しますが、ここでは北宮を表すようです)。『易経』では、龍戦の会(時)には(『資治通鑑』胡三省注によると、「龍戦」は『易坤卦』の「龍が野で戦う(龍戦于野)」を指します。陰陽が交戦するという意味です)、陽道が勝ち、陰道が負けることになります(「陽」は皇帝、「陰」は皇后や外戚を指します)。将軍が公朝に専心し、私欲を割除し、広く賢能を求め、佞悪を斥遠(排斥して遠ざけること)することを願います。皇帝のために師傅を置き、小心(慎重)で忠篤敦礼の士を得て、将軍も共に入って(入宮して)勧学に参与し(参勧講授)、古の賢人に倣えば(師賢法古)、南山に寄りかかって平原に座るようになるので(その地位が安定するので)、誰が(将軍の地位を)傾けられるでしょう。議郎・大夫の位は本来、儒術高行の士儒学に精通していて品行が優れた士)を序列に基いて用いるものですが(本以式序儒術高行之士)、今は多くがその人(相応しい人材)ではなく、九卿の中にも任(職責)から離れた者(乖其任者)がいます。将軍の考察を請います(惟将軍察焉)。」
朱穆はまた种暠、欒巴等を推挙しましたが、梁冀は用いることができませんでした。
朱穆は朱暉(章帝元和元年84年参照)の孫です。
 
[十四] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月戊戌(中華書局『白話資治通鑑』は「戊戌」を恐らく誤りとしています)皇祖(祖父)河間孝王劉開を追尊して孝穆皇に、劉開の夫人趙氏を孝穆皇后にしました。劉開の廟は清廟、陵は楽成陵と呼ぶことになります。
資治通鑑』胡三省注によると、楽成県は河間国に属します。
 
また、皇考()蠡吾先侯劉翼桓帝の父)を孝崇皇とし、廟を烈廟、陵を博陵と呼ぶことにしました。
資治通鑑』胡三省注によると、博陵は本来、蠡吾県に属す地です(本蠡吾県之地也)
『水経注巻十一』が博陵について書いており、「漢質帝本初元年(本年)(略)(桓帝が)劉翼の陵を追尊して博陵とし、これによって(博陵を)県にした」と解説しています。博陵は蠡吾県から分かれて県になりました。桓帝延熹元年158年)には中山国から分かれて博陵郡になります。
 
それぞれの廟陵に令と丞を置き、司徒に符節を持たせ、策書と璽綬を奉じて太牢(牛豚を犠牲に使う祭祀の規格)で祭祀を行わせました。
 
冬十月甲午(十二日)、皇母(皇帝の母)匽氏を尊んで孝崇博園貴人にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、匽氏は咎繇(皋陶。太古の法官)の後代です。匽貴人は名を明といい、元は蠡吾侯劉翼の媵妾でした。博園は博陵寝園の意味です。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
滕撫は性格が方直(方正強直)で権勢と交わらなかったため、宦官に憎まれました。
本来なら揚徐の賊を平定した功(前年)によって封侯されるべきでしたが、太尉胡広が権貴の意を受けて弾劾排斥しました(承旨奏黜)
滕撫は封侯されることなく、後に家で死にました。
 
 
 
次回から東漢桓帝の時代です。

東漢時代223 桓帝(一) 杜喬の諫言 147年(1)