東漢時代226 桓帝(四) 相次ぐ天変地異 149年(1)
己丑 149年
春三月甲申、彭城王・劉定が死にました。
夏四月丁卯晦、日食がありました。
五月乙亥、桓帝が詔を発しました(桓帝は既に元服していますが、梁太后が政権を桓帝に還すのは和平元年・150年の事なので、この詔は梁太后のものかもしれません)「天が蒸民(民衆)を生んだが、自ら管理できないので、君を立てて司牧(統治)させたと聞いている。君道が下に得られれば(君道が下で行われれば)、休祥(美祥)が上で顕著になり、庶事(諸政事)がその序(秩序)を失えば、咎徵が象(自然現象)に現れる。最近、日食毀缺して陽光が晦暗(暗黒)になったので、朕は畏敬して深く考え(祗懼潜思)、安居する暇もない(匪遑啓処)。『伝』はこう言っているではないか『日食があったら徳を修め、月食があったら刑を修める(日食修徳,月食修刑)。』昔、孝章帝は前世(先代)の禁徙(禁錮に処された者や遠方に遷された者)を憐憫したので、建初の元(章帝建初元年・76年)に、併せて恩沢を蒙らせ、流徙(流浪)の者を故郡に帰し、没入した者(官奴に落とされた者)を免じて庶民にした。先皇の徳政に務めなくてもいいのだろうか。よって永建元年(順帝の最初の年。126年)から今歳(今年)に至るまでに諸妖悪の支親(親族)で従坐(連座)した者および吏民で死刑を減らして辺境に遷された者(減死徙辺者)を全て本郡に帰らせる。但し没入した者だけはこの令に従わないことにする。」
乙卯、憲陵(順帝陵)の寝屋(陵寝。死体を安葬する場所)が震えました。
秋七月庚申、廉県で肉の雨が降りました。
『孝桓帝紀』の注によると、肉は羊肺のようで、手と同じくらいの大きさでした。
秋八月乙丑(三十日)、孛星(異星。彗星の一種)が天市に現れました。
京師で大水(洪水)がありました。
五つの郡国で山崩れがありました。
冬十月、太尉・趙戒を罷免しました。
司徒・袁湯を太尉に、大司農・河内の人・張歆を司徒にしました。
『孝桓帝紀』の注によると、張歆の字は敬讓といいます。
十一月甲申、桓帝が詔を発しました(梁太后の詔かもしれません)「朕が執政して中(中庸)を失い(摂政失中)、災眚(災難)が頻繁に連なり(災眚連仍)、三光(日月星)が明るくなくなり(三光不明)、陰陽が秩序を違えているので(陰陽錯序)、(朕は)うとうとしても眠れず嘆息し(原文「監寐寤歎」。「監寐」はうとうとすること、「寤歎」は眠れず嘆息することです)、憂慮を極めている(原文「疢如疾首」。「疢」は「病、熱病」で、「疾首」は「頭痛」なので、「頭痛のような病」の意味ですが、「大きな憂慮を抱いている様子」の比喩として使われます)。今、京師の廝舍(貧民の家。「廝」は奴隷や賎しい仕事をする者です)では死者が枕を並べ、郡県の阡陌(畦道)にも処処に(死体が)ある。これは甚だ周文掩胔の義(西周文王が死体を埋葬した道義)に違えている。よって家属がいても貧しくて埋葬する術がない者には一人当たり三千を与え(原文「給直人三千」。「直」の意味がよくわかりません。「値」に通じて「一人当たり銭三千相当を与える」という意味かもしれません。その場合は、金銭以外の物が支給されたようです)、喪主には布三匹を与える。もしも親属がいないようなら、官壖の地(『孝桓帝紀』の注によると、官の余った土地、または城郭の傍です)に埋葬し(葬儀、埋葬を行うのは恐らく官員です)、姓名を表識して祠祭を設けることを許可する。また、それぞれの任地で労役している者に対して(徒在作部)、病を患ったら医薬を与え、死亡したら厚く埋葬せよ(疾病致医薬,死亡厚埋藏)。民で自振(自給。自救)できない者および流移(流浪)の者には、規定に則って穀物を与えよ(稟穀如科)。(これらに関しては)州郡が検察(検査・確認)し、務めて恩施を重視することで我が民を安康にさせよ(務崇恩施以康我民)。」
次回に続きます。