東漢時代228 桓帝(六) 梁冀と孫寿 150年(1)

今回は東漢桓帝和平元年です。二回に分けます。
 
東漢桓帝和平元年
庚寅 150
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月甲子(初一日)、天下に大赦して建和四年から和平元年に改元しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙丑(初二日)、梁太后が詔を発しました「以前、家の不幸に遭って(原文「遭家不造」。『詩経周頌』の言葉です)先帝が早世しました。そこで、永く大宗の重を考え、深く嗣続(子孫)の福を思い、台輔(三公。大臣)に詢謀(意見を求めること)して、占卜を考察しました(稽之兆占)(その結果)既に明哲を立てて統業を克定(安定)させ、天人が協和して万国が全て安寧になっています。(帝が)元服を加えてから桓帝建和二年148年)(政権を)委付しようとしましたが、四方の盗竊(盗賊)の多くがまだ静まっていなかったで、暫く臨政を延期して安定するのを待ちました(假延臨政以須安謐)。幸い股肱禦侮重臣武臣)の助に頼って残醜(残存した賊)を消蕩し(『孝桓帝紀』の注によると、建和二年148年の陳景や管伯等の謀反を指します)、民が和して豊作になり(民和年稔)、天下全土で遠近が調和統一しました(普天率土遐邇洽同)。よって、遠くは『復子明辟』の義(道理)を考察し(「復子明辟」は『尚書』の言葉で、西周時代初期に執政していた周公が成王に政権を返還した出来事を指します。「復」は「返還」、「子」は「成王」、「明辟」は「明君の政権」の意味です)、近くは先姑の帰授の法を慕い(「先姑が政権を返還して帝に授けた方法を慕って」。「先姑」は安帝の閻皇后です。『孝桓帝紀』の注によると、婦人は夫の父を「舅」、夫の母を「姑」と呼びました。生前は「君舅」「君姑」といい(「君」は尊敬を表します)、死後は「先舅」「先姑」といいます。梁太后は順帝の皇后で、順帝は安帝の子なので、閻太后は梁太后の「先姑」に当たります。実際は、順帝が元服したのは順帝永建四年129年で、閻太后はそれ以前の順帝永建元年126年に死んでおり、外戚閻氏も失脚しているので、「先姑が順帝に政権を還した」というのは脚色があります)、今の令辰(吉時)に及んで皇帝が称制政令を出すこと。執政)することにします。群公卿士は汝等の官位を謹んで敬い(虔恭爾位)、協力して心を一つにし(戮力一意)、務めて同心になりなさい(原文「勉同断金」。「断金」は同心の意味です)。『必ず大成する(必ず太平をもたらすことができる。原文「展也大成」。『詩経小雅』の言葉です)』、これが(私が)期待するところです(則所望矣)。」
こうして梁太后が政権を帝に返還し、始めて称制を止めました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
二月、扶風の妖賊裴優(『孝桓帝紀』の注によると、裴氏は伯益の後代です)が自ら皇帝を称しましたが、誅に伏しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲寅(二十二日)太后梁氏が死にました。
後漢書皇后紀下』によると、梁太后は四十五歳でした。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、車駕(皇帝)が北宮に移りました。
 
桓帝建和二年148年)に北宮掖庭内の徳陽殿と左掖門で火災があったため、桓帝は南宮に移っていました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲午(中華書局『白話資治通鑑』は「甲午」を恐らく誤りとしています)、順烈皇后(梁太后を埋葬しました。
後漢書皇后紀下』によると、憲陵で順帝と合葬されました。
 
桓帝が大将軍梁冀に一万戸を増封しました。以前の食邑と併せて三万戸になります。
また、梁冀の妻孫寿を襄城君に封じ、陽翟の租も収入に加えさせました(兼食陽翟租)。孫寿の一年の収入は五千万になります。桓帝は孫寿に赤紱を加えて長公主と同等にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、襄城、陽翟とも潁川郡に属す県です。
漢制では、公主は公侯と同格で(儀服同公侯)紫紱を持ちましたが、長公主は諸王と同格で(儀服同諸王)赤紱を持ちました。
 
孫寿は妖態によって梁冀を蠱惑(誘惑。惑わすこと)するのが得意だったので、梁冀は非常に孫寿を寵憚(寵愛しながら懼れること)しました。
後漢書梁統列伝(巻三十四)』は孫寿の姿を「愁眉啼粧(「愁眉」は憂いを抱いた時のような細くて曲がった眉、「啼粧」は泣いた後のように目の下の白粉を薄くする化粧の方法です)」「墮馬髻(束ねた髪を左右のどちらかに垂らす髪型)」「折腰歩(腰を振って歩くこと)」「齲歯笑(歯が痛い時のような笑い方。はにかんだ笑い)」と書いており、注釈が「(これらは)梁冀の家で為したところから始まり、京師が一斉に真似するようになった」と解説しています。
 
梁冀は監奴秦宮を寵愛し、官を太倉令に至らせました。『資治通鑑』胡三省注によると、太倉令は大司農に属す秩六百石の官で、郡国から運ばれた穀物の受け入れを管理します。
秦宮は孫寿の住居に出入りできたため、威権を大いに振るわせました。刺史や二千石が任地に赴く時は皆、秦宮を謁見して別れの挨拶をするようになります。
 
梁冀と孫寿は街道を挟んで邸宅を建てました。建築の技巧を極めて互いに競い合い(殫極土木互相誇競)、金玉珍怪(珍宝)が藏室を満たします。
また、広大な園圃を開き、土を集めて山を築き、十里の間に九阪(九つの坂、山)が造られました。深林や絶澗(絶谷)は自然にできた景観のようです。その中を奇禽(珍しい鳥)や馴獣(飼育された獣)が飛走しました。
梁冀と孫寿は共に輦車(人が牽く車)に乗って邸宅内を遊観しました。多数の倡伎が後ろに従い、道中で歌を歌います(酣謳竟路)。連日連夜、ほしいままに遊楽することもありました。
 
客が梁冀の門を訪ねても通されないため、皆、門者(門番)に賄賂を贈って謁見を請いました(請謝門者)。門者の財は千金を数えるようになります。
 
梁冀は更に多数の林苑を開き、近隣の県を覆いました(周遍近県)
また、河南城西に兔苑を築きました。長く連なった兔苑は数十里に及びます(経亙数十里)。梁冀は兔苑が造られた地に檄(文書)を送って生きた兔を徴発させ、兔の毛を一部切って目印にしました。(禁令を)犯す者がいたら(兔を捕まえる者がいたら)罪が死刑に至ります。
ある時、西域の賈胡少数民族の商人)が禁忌を知らずに誤って一兔を殺してしまいました。事件が発覚して関係者が互いに告発したため、罪に坐して死んだ者は十余人を数えました。
 
梁冀は城西にも別宅を築いて姦亡(法を守らない姦民や亡命者)を収容しました。
しかも良人(平民)を奪って全て奴婢に落とし、その数は数千口に及びました。梁冀はこれを「自売人(自らを売った人)」と名づけました。
 
梁冀は孫寿の言を用いて多くの梁氏から官位を奪い、排斥しました。そうすることで外に対して謙譲を示しましたが、実際は孫氏の地位を高くさせるのが孫寿の目的でした(官職が空位になったら孫氏の者が用いられます)
孫氏の宗親で能力がないのに侍中、卿、校、郡守、長吏になった者は十余人もおり(冒名為侍中、卿、校、郡守、長吏者十余人)、皆、貪饕(貪婪)凶淫(凶悪放縦)でした。それぞれ私客を使って属県の富人を記録し、他罪を被せ、獄に入れて拷問しました(閉獄掠拷)。金銭を出して贖罪させ、貲物(家財)が少ない者は死に至ることもありました。
 
扶風の人士孫奮(士孫が姓、奮が名です)は富裕でしたが性格が吝嗇でした。
梁冀が馬乗(四頭の馬。馬車を牽く馬)を贈り、代わりに銭五千万を借りようとしました。しかし士孫奮が三千万しか与えなかったため、梁冀は激怒して士孫奮が住む郡県で「士孫奮の母はかつて梁冀の守藏婢(財物を管理する婢女)になり、白珠十斛と紫金千斤を盗んで逃走した」と告発しました。
その結果、士孫奮兄弟は逮捕されて拷問を受け、獄中で死にました。士孫奮の貲財(財産)一億七千余万は全て没収されます。
 
梁冀は賓客を派遣して四方に周流(周遊)させました。遠い者は塞外に至って広く異物(珍宝)を求めます。
派遣された者達も権勢に乗じて横暴に振るまい、婦女を奪ったり(妻略婦女)吏卒を殴打したため、彼等が至った場所で怨毒(怨恨悲痛)を生みました。
 
 
 
次回に続きます。