東漢時代233 桓帝(十一) 朱穆失脚 153年
夏五月丙申(『資治通鑑』は「四月丙申」としていますが、『後漢書・孝桓帝紀』では「五月丙申」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)、天下に大赦して元嘉三年から永興元年に改元しました。
丁酉(上の記述と同じく、『資治通鑑』は「四月」に書いていますが、『後漢書・孝桓帝紀』では「五月」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)、済南王・劉広(悼王)が死にました。
劉広は済南釐王・劉顕の子で、劉顕は簡王・劉錯の子、劉錯は安王・劉康の子です。劉康の父は光武帝です(順帝永建元年・126年および順帝永建三年・128年参照)。
また、桓帝は詔を発して侍御史・朱穆を冀州刺史に任命しました。
朱穆は冀州に至ると諸郡の貪汚の者を弾劾・上奏しました。
太学の書生で潁川の人・劉陶等数千人が宮闕を訪ねて上書し、朱穆のために訴えました「伏して見るに、弛刑徒(首枷等の刑具を外された囚人)・朱穆は公事を処理して国を憂い(処公憂国)、拝州の日(州刺史を拝命した日)には姦悪を清める(除く)ことを志しました。誠に常侍(宮中の宦官)の貴寵によって、その父子・兄弟が州郡に散布し、競って虎狼となり、小民を噬食(噛んで呑みこむこと)しているので、朱穆は天綱(天の綱紀。国法)を張って正し(張理天綱)、漏目を補綴し(法の漏れを補い)、残禍(暴虐・禍患)を羅取(集めて取ること)し、そうすることで天意を塞ぎました(満足させました)。そのため、内官(中官。宦官)が皆共に恚疾(怨恨)し、誹謗が絶えることなく発生して(謗讟煩興)、讒言が頻繁に作られ(讒隙仍作)、ついに刑罰に至らせて(極其刑讁)、左校で輸作することになりました。天下の有識の者は皆、朱穆が禹・稷(后稷)と同じく勤(勤勉。勤労)でありながら、共(共工)・鯀の戾(刑罰。禍患)を被ったと思っています。もしも死者に知覚があるのなら(若死者有知)、唐帝(帝堯)が崇山で怒り、重華(帝舜)が蒼墓で忿懣するでしょう(『資治通鑑』胡三省注によると、この「崇山」は南裔(南方の辺境の地)を指します。帝堯が埋葬されました。「蒼墓」は蒼梧の帝舜の墓です)。
今は中官(宦官)・近習(近臣)が国の実権を盗み持ち(竊持国柄)、手に王爵を握って口に天憲を銜え(王法を口にし)、運賞(行賞)したら餓隸(飢えた奴隷)を季孫(季氏。魯の大臣。『資治通鑑』胡三省注によると、季氏は周公より富んでいたと言います)よりも富ませ、呼噏(呼吸。短い時間)によって伊(伊尹)・顔(顔回)を桀・跖(盗跖)と化しています(善人も些細な事ですぐ悪人にされてしまいます)。しかし朱穆だけは亢然として(頭をあげて。胸を張って)我が身が害されることを顧みませんでした。これは栄(栄盛)を嫌って辱(恥辱。屈辱)を好み、生を嫌って死を好んだからではなく(非悪栄而好辱,悪生而好死也)、ただ王綱の不攝(不調。不振)を感じ、天綱が久しく失われることを懼れたので、心を尽くして憂いを抱き(竭心懐憂)、上(陛下)のために深く計ったのです。臣は黥首繋趾(顔に刺青をして足を枷で繋ぐこと)して朱穆の代わりに輸作(労役)することを願います。」
冬十月、太尉・袁湯を罷免して太常・胡広を太尉に任命しました。
また、司徒・呉雄と司空・趙戒を罷免し、太僕・黄瓊を司徒に、光禄勳・房植を司空に任命しました。
[八] 『後漢書・孝桓帝紀』『後漢書・南蛮西南夷列伝(巻八十六)』と『資治通鑑』からです。
桓帝元嘉元年(151年。二年前)の秋、武陵蛮・詹山等四千余人が叛して県令を捕え、深山(山奥)に集結しました。
この年、武陵太守・汝南の人・応奉が恩信によって招誘したため、叛蛮が全て投降・解散しました。
車師後部王・阿羅多と戊部候・厳皓の関係がうまくいかなかったため、阿羅多が忿戾(忿懣怨恨)して叛し、屯田を包囲攻撃して吏士を殺傷しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、戊・己両部の校尉にはそれぞれ部候がいました。和帝が車師後部に戊部候を置きました。
敦煌太守・宋亮が上書して後部の旧王・軍就の質子(人質として送られた子)・卑君を王に立てました。
戊校尉・閻詳(『資治通鑑』では「厳詳」ですが、『後漢書・西域伝(巻八十八)』では「閻詳」です。恐らく『資治通鑑』が誤りです)は阿羅多が北虜(北匈奴)を招き入れて西域を混乱させることを憂慮したため、誠意を示して告示し、再び王に戻ることを許しました。