東漢時代238 桓帝(十六) 南匈奴の乱 158年
戊戌 158年
春三月己酉、初めて鴻徳苑令を置きました。
『孝桓帝紀』によると、苑令は一人で秩六百石です。
夏五月己酉(初四日)、公卿以下の官員を集めて会を開き、それぞれに差をつけて賞賜を与えました。
甲戌(二十九日)晦、日食がありました。
これを聞いた梁冀は雒陽令に示唆して陳授を逮捕拷問させました(收考)。陳授は獄中で死にます。
この事件があってから桓帝は梁冀に対して怒りを抱きました。
袁宏の『後漢紀』は翌年に「梁冀が私憾(私怨)によって勝手に議郎・邴尊を殺したため、上(桓帝)がますます怒った」と書いています。『資治通鑑』は范瞱の『後漢書(梁統列伝・巻三十四)』に従って、本年に陳授が殺された事件を書いています(胡三省注参照)。
京師で蝗害がありました。
大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
秋七月甲子(二十日)、太尉・黄瓊を罷免し、太常・胡広を太尉にしました。
己巳(二十五日)、雲陽の地が裂けました。
これは『資治通鑑』の記述です。『後漢書・李陳龐陳橋列伝(巻五十一)』『後漢書・南匈奴列伝(巻八十九)』は陳亀がいつ度遼将軍になったかを明らかにしていません。『資治通鑑』胡三省注は「度遼将軍が任命される度に『匈奴伝』が記述してきたが、この陳亀と以前の李庸およびこの後の种暠は(いつ任命されたかが)記されていない」と解説しています。
以下、『李陳龐陳橋列伝』から陳亀について紹介します。
陳亀は若い頃から志気(志と気力)がありました。永建年間(順帝時代)に孝廉に挙げられ、五遷して(五回昇格して)五原太守になります。
後に再び昇格して京兆尹になりました。
その頃、三輔では強豪な族(豪族)の多くが小民を侵害していました。
陳亀は着任してから威厳を振るい、怨屈の者(冤罪を訴えている者や怨みを抱いている者)をことごとく公平に審理します。そのため郡内が大いに悦びました。
ちょうど羌胡が辺境を侵して長吏を殺し、百姓を駆逐略奪しました。
『資治通鑑』に戻ります。
上書の内容は別の場所で書きます。
東漢時代 陳亀の上書
また、詔を発して「陳将軍のために并・涼の一年の租賦を除き、それを吏民に与える(以賜吏民)」と言いました。
陳亀が着任してから、州郡が戦慄震撼しました(原文「重足震栗」。「重足」は足を重ねて立つこと、恐れて足を前に出せない様子です)。
陳亀が削減した経費は年に億を数えます。
桓帝が詔を発し、安定属国都尉・張奐を使匈奴中郎将(『資治通鑑』は「北中郎将」としていますが、『後漢書・皇甫張段列伝(巻六十五)』では「使匈奴中郎将」になっています。恐らく『資治通鑑』が誤りです)に任命して匈奴や烏桓等を討伐させました。
匈奴と烏桓は度遼将軍の門を焼き(『資治通鑑』胡三省注によると、当時、度遼将軍は五原に駐屯していました。上の文を見ると度遼将軍は陳亀のようですが、『皇甫張段列伝』も『資治通鑑』も名を明らかにしていません)、兵を率いて赤阬に駐軍しました。
煙火を見た張奐の兵衆は大いに恐れ、それぞれ逃亡しようとします。しかし張奐が帷中で安坐(安定して坐ること)して平然とした態度で弟子に経典を講誦(講義・朗読)したため、軍士が少しずつ落ち着きました。
張奐は秘かに烏桓を誘って和通しました。その後、烏桓を使って匈奴と屠各(『資治通鑑』胡三省注によると、「屠各」は匈奴の別種(別族)です)の渠帥を斬らせ、その兵衆を襲って破りました。諸胡が全て張奐に降ります。
しかし桓帝は詔を発してこう答えました「『春秋』は居正を大としている(正道を守ることを貴んでいる。原文「春秋大居正」)。車児は一心に向化(帰順)している。何の罪があって廃すのか(何罪而黜)。(車児を)送って庭(単于庭)に還らせよ。」
大将軍・梁冀は陳亀との間にかねてから対立があったため、「陳亀は国威を損ない(沮毀国威)、功誉(功績と名誉)だけを求めており(挑取功誉)、胡虜に畏れられていない」と讒言しました。
梁冀の暴虐が日に日にひどくなったため、陳亀が上書してその罪状を述べ、誅殺するように請いましたが、桓帝は取り合いませんでした。
陳亀は必ず梁冀に害されることになると知り、七日間絶食して死にました。
种暠は営所に到着するとまず恩信を宣布して諸胡を誘降しました。服さない者がいてから討伐を加えます。
以前、漢兵に生け捕りにされて郡県の官府で人質になっていた羌虜の者(羌虜先時有生見獲質於郡県者)は全て還らせました。
誠心によって懐柔慰撫し、信賞を明確にしたため、羌・胡が皆、順服(帰順)しに来ます。
そこで种暠は烽燧や候望(見張り台)を除きました。辺境が安寧になり、警報がなくなります。
种暠は後に朝廷に入って大司農に任命されました。
次回に続きます。