東漢時代239 桓帝(十七) 梁皇后の死 159年(1)

今回は東漢桓帝延熹二年です。六回に分けます。
 
己亥 159
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月、鮮卑が雁門を侵しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
己亥、阜陵王劉便(または「劉便親」。桓帝建和元年147年参照)が死にました。
 
劉便の諡号は恭王です。『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると子の孝王劉統が継ぎました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
蜀郡夷が蠶陵を侵しました。
資治通鑑』胡三省注によると、蠶陵県は蜀郡に属し、蠶陵山があるので県名になりました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、刺史二千石が三年の喪を行うことをまた禁止しました桓帝永興二年154年参照)
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏、京師で大水(洪水)がありました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、鮮卑が遼東を侵しました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
秋七月、初めて顕陽苑を造って丞を置きました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
梁皇后は姉(梁太后。順帝の皇后)と兄(梁冀)の庇護と権勢に頼り、ほしいままに奢靡(奢侈)を極めました。その様子は歴代皇后の数倍にもなり(兼倍前世)、しかも寵愛を独占して他の者を嫉妬したため(専寵妬忌)、六宮(「六宮」は正寝(正殿)一つと燕寝(帝王が休む部屋)五つで、皇宮・後宮を指しますが、転じて皇后や妃嬪を意味するようになりました)が進見できなくなりました(他の妃嬪が桓帝の寵を受けられなくなりました)
しかし梁太后が死んでからは桓帝和平元年・150年)桓帝の梁皇后に対する恩寵が急速に衰えました。
 
梁皇后には後嗣が生まれなかったため、他の宮人が孕育(妊娠)しても全うできた者はわずかしかいませんでした。
桓帝は梁冀を畏れて梁皇后を譴怒できませんでしたが、稀にしか進御しなくなります。梁皇后はますます憂恚(憂慮憤恨)を抱きました。
 
丙午(初八日)、皇后梁氏が死にました。
乙丑(二十七日)、懿献皇后(梁皇后)を懿陵に埋葬しました。
 
梁冀一門は前後して七侯、三皇后と六貴人、二大将軍を輩出し、夫人や娘で食邑を持って「君」を称した者は七人、公主と結婚した者は三人、その他にも卿、将、尹、校になった者が五十七人もいました。
「七侯」は、まず梁冀の祖父梁雍が乗氏侯に封じられました。梁冀は襄邑侯に封じられましたが辞退し、後に乗氏侯を継承しました。梁冀の子梁胤が襄邑侯に封じられます。梁冀の弟梁不疑は潁陽侯、梁蒙は西平侯になり、梁不疑の子梁馬は潁陰侯、梁胤の子梁桃は城父侯になりました。以上、梁雍、梁冀、梁胤、梁不疑、梁蒙、梁馬、梁桃の七人を「七侯」といいます。
「三皇后」は恭懐皇后(章帝の貴人。和帝の母)、順烈皇后(順帝の皇后)、懿献皇后(桓帝の皇后)の三人です。
「六貴人」の詳細はわかりません。
「二大将軍」は梁商と梁冀です。
資治通鑑』胡三省注によると、「卿」は九卿、「将」は中郎将、「尹」は河南尹と京兆尹、「校」は諸校尉です。
 
梁冀は威柄(威権権勢)を専断して、凶恣(強暴放縦)が日に日にひどくなりました。宮衛や近侍は全て近親の者を置き、禁省(禁中)の起居(皇帝の動向)は些細な事まで必ず把握しています。
四方から調発(調達徴発)した物や、毎年献上される貢物は、いつも先に上第(第一品。最も優れた物)が梁冀に送られ、皇帝はその後にまわされました(原文「乗輿乃其次焉」。「乗輿」は皇帝の意味です)
官を求めたり免罪を請うために吏民が貨財を持って梁冀を訪ね、多くの人が道に連なります。
百官が遷召(異動。昇格召還)された際は、皆まず梁冀の門を訪ねて恩を謝す文書を提出してから(原文「牋檄謝恩」。『資治通鑑』胡三省注によると、紙に書いた文書を「牋」、木に書いた文書を「檄」といいます)尚書を訪ねて正式に任命を受けました。
 
下邳の人呉樹が宛令になった時も、着任する前に梁冀を訪ねて別れの挨拶をしました。
宛の県内には梁冀の賓客が分布していたため、梁冀が呉樹に情を託しました(賓客の力になるように求めました。原文「以情託樹」)
しかし呉樹はこう言いました「小人は姦蠹(害虫。姦悪を為す者)なので、家々で誅殺するべきです(比屋可誅)。明将軍は上将の位にいるので、賢善を崇めることで朝闕(朝政の欠陥)を補うべきなのに、侍坐してから(梁冀に侍って坐ってから。梁冀と話をしてから)一人の長者を称賛するのも聞いたことがなく、逆に非人(相応しくない人)を多く託しています。誠に聞くに堪えません(誠非敢聞)。」
梁冀は沈黙しましたが、心中不快でした。
呉樹は県に到着してから梁冀の客で人()の害となっている者を数十人誅殺しました。
後に呉樹は荊州刺史に任命され、また梁冀に別れを告げに行きました。この時、梁冀は呉樹に鴆毒を飲ませます。
呉樹は梁冀の家を出てから、車上で死んでしまいました。
 
遼東太守侯猛は任命された時に梁冀を謁見しませんでした。
梁冀は他事に託して(理由を探して)侯猛を腰斬に処しました。
 
郎中汝南の人袁著は十九歳で宮闕を訪ね、上書してこう言いました「四時の運(四季の運行)とは、功が成ったら退くものです(各季節とも盛んな時に至った後は減退するものです。原文「功成則退」)。高爵厚寵が災いを招かなかったことはほとんどありません。今、大将軍は位が極まり功が成ったので、至戒を為して(特に警戒して)、懸車の礼(隠退の礼。西漢元帝永光元年43年参照)を遵守し、高枕頤神(枕を高くして精神を保養すること)するべきです。伝はこう言っています『実が多すぎる木は、枝が割れて心(中心。幹や根)が害される(木実繁者披枝害心)。』もし盛権(盛んな権勢)を抑損(抑制)しなかったら、その身を全うできなくなるでしょう(将無以全其身矣)。」
これを聞いた梁冀は秘かに人を送って掩捕(不意を突いて突然逮捕すること)しようとしました。
袁著は姓名を変え、病のため死んだと偽り、蒲草を結って人の形を作ってから棺を買って殯送(埋葬)しました。
しかし梁冀はこれを偽りだと知り、袁著を探して捕まえ、笞殺(鞭殺)しました。
 
太原の郝絜と胡武は危言(直言)高論(高尚な談論)を好み、袁著とも親しくしていました。
二人はかつて連名で三府(三公府)に文書を提出し、海内の高士を推薦しましたが、梁冀には送りませんでした。
袁著が死んでから、梁冀は遡って怒りを抱き、中都官に勅令しました。中都官から移檄(公文書。命令書)を発して郝絜と胡武を逮捕させます。
胡武の家族は誅殺されて死者が六十余人に上りました。
郝絜は始めは逃亡しましたが、逃げられないと知り、自ら棺を持って梁冀の家に書信を送りました。書信を門に入れてから毒薬を飲んで死にます。そのおかげで家族は助かりました。
 
安帝の嫡母耿貴人が死んだ時(いつの事かは分かりません)、梁冀が耿貴人の従子(兄弟の子)に当たる林慮侯承に要求して耿貴人の珍玩(珍宝玩具)を得ようとしました。しかし拒否されたため、梁冀は怒って耿承と家の者十余人を皆殺しにしました。
耿貴人は清河孝王劉慶の正妻耿姫で、耿況光武帝時代の功臣)の曾孫です。安帝の実母は左姫といいます(殤帝延平元年106年参照)
 
涿郡の人崔琦は文才によって梁冀に称賛されていました。そこで崔琦は『外戚箴』と『白鵠賦』を作って梁冀を婉曲に諫めました(または「風刺しました」。原文「作『外戚箴』『白鵠賦』以風」)
 
資治通鑑』胡三省注が『外戚箴』を載せています。訳はせず、そのまま記載します。
「赫赫外戚,華寵煌煌。昔在帝舜,徳降英皇。周興三母,有莘崇湯。宣王晏起,姜后脱簪。斉桓好楽,衛姫不音。皆輔主以礼,扶君以仁,達才進善,以義済身。爰曁末葉,漸已虧,貫魚不序,九御差池。晋国之難,禍起於麗。惟家之索,牝雞之晨,専権擅愛,顕己蔽人,陵長間旧,圮剝至親,並后匹嫡,淫女斃陳。匪賢是上,番為司徒,荷爵負乗,采食名都,詩人是刺,徳用不憮。暴辛惑婦,拒諫自孤,蝮蛇其心,縦毒不辜,諸父是殺,孕子是刳,天怒地忿,人謀鬼図,甲子昧爽,身首分離。初為天子,後為人螭,非但耽色,母后尤然。不相率以礼,而競奨以権,先笑後号,卒以辱残,家国泯絶,宗廟焼燔。末嬉喪夏,褒姒斃周,妲己亡殷,趙霊沙丘。戚姫人豕,呂宗以敗。陳后作巫,卒死於外。霍欲鴆子,身乃罹廃。故曰無謂我貴,天将爾摧。無恃常好,免有歇微。無怙常幸,愛有陵遅。無曰我能,天人爾違。患生不徳,福有慎機,日不常中,月盈有虧,履道者固,仗勢者危。微臣司戚,敢告在斯。」
 
梁冀が怒ると崔琦はこう言いました「昔、管仲が斉で相になった時は、楽しんで譏諫の言を聞きました。蕭何が漢を輔佐した時は、書過の吏(過失を記録する官吏)を設けました。今、将軍は代々国を輔佐する重臣となって(屢世台輔)任が伊(伊尹)(周公)と等しいのに(任斉伊周)徳政をまだ聞かず、黎元(民衆)が塗炭(泥や炭火。困難な状況)にいるのに貞良と結納(交際)して禍敗から救うことができず、逆に士の口を鉗塞(塞ぐこと)して主の聴(国君の耳)を杜蔽(隔絶。塞いで覆うこと)しようと欲しています。玄黄の色を改めて鹿と馬の形を変えるつもりでしょうか。」
「玄黄」は黒と黄色で「天地の色」です。その色を改めるというのは天と地を転倒させることを意味します。「鹿と馬が形を変える(鹿馬易形)」というのは、秦二世皇帝と趙高の故事を指します。
 
梁冀は返す言葉が無くなり、崔琦を(故郷に)帰らせました(梁冀が崔琦を必要としなくなったことを意味します)
崔琦は懼れて逃亡し、身を隠しましたが、結局、梁冀に捕まって殺されてしまいました。
 
 
 
次回に続きます。