東漢時代244 桓帝(二十二) 第五種 陳蕃 爰延 159年(6)

今回で東漢桓帝延熹二年が終わります。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
桓帝が詔を発し、再び陳蕃を光禄勳に、楊秉を河南尹に任命しました。
 
単超の兄の子単匡は済陰太守になり、権勢をかりて貪婪放縦に振る舞いました。
単匡について、『後漢書楊震列伝(巻五十四)』は「中常侍単超の弟単匡が済陰太守になった」、『後漢書宦者列伝(巻七十八)』は「単超の弟単安が河東太守に、弟の子単匡が済陰太守になった」、『後漢書第五鍾離宋寒列伝(巻四十一)』は「中常侍単超の兄の子単匡が済陰太守になった」と書いています。『資治通鑑』は『第五鍾離宋寒列伝』に従っています。
 
兗州刺史第五種が従事衛羽に単匡を調査させ、貪汚によって得た財五六千万(臧五六千万)を得ました。
資治通鑑』胡三省注によると、十二州の刺史にはそれぞれ従事史(従事)がいました。
刺史の官員は司隸とほぼ同じですが、刺史には都官従事がいません(都官従事は司隸に属す佐官です)。また、司隸における功曹従事は、刺史の下では治中従事に当たります。更に部郡国従事(州下の郡国の従事)が各郡国に一人おり、文書を管理したり非法の者を監察検挙しました。全て州刺史が自ら招聘任命し、通常は秩百石です。
第五種は第五倫光武帝と明帝に仕えました。光武帝中元元年56年参照)の曾孫です。
 
第五種は単匡の罪をすぐに上奏し、併せて単超を弾劾しました。
窮迫した単匡は客の任方に賄賂を贈って衛羽を刺殺させようとします。しかし衛羽が姦計を悟って任方を逮捕し、雒陽の獄に繋げました。
単匡は河南尹楊秉がこの事件を追求することを心配し、秘かに任方等(複数の者が逮捕されたようです)に命じて脱獄逃走させました。
尚書が楊秉を招いて厳しく責任を問うと、楊秉はこう答えました「任方等の無状(悪行)は単匡の罪が元になっています(釁由単匡)。檻車を使って単匡を召し、この件を考覈(審査)することを乞います。そうすれば必ずすぐに姦悪の形跡を得られます(姦慝蹤緒必可立得)。」
しかし楊秉は逆に罪に坐して左校で労役する刑に処されました(論作左校)
 
当時、泰山の賊叔孫無忌が徐兗州を寇暴(侵略)しており、州郡では討伐できませんでした。
単超はこれを理由に兗州刺史第五種を陥れます。第五種は罪に坐して朔方に送られました。
 
後漢書桓帝紀』『後漢書楊震列伝』は白馬令李雲の獄死(前回参照)延熹三年160年。翌年)春の事としていますが、『欽定四庫全書後漢(袁宏)』は本年延熹二年)秋に書いています。
後漢書楊震列伝』では延熹三年に楊秉が李雲を助けようとして罷免され、その年の冬、改めて楊秉が河南尹に任命されますが、単匡の事件が原因でまた罷免されて左校に送られます。
後漢書第五鍾離宋寒列伝』では、単匡が客を送って衛羽を暗殺しようとした後に、単超が第五種を怨んで陥れ、朔方に送っています。年は明記していません。
しかし単超は延熹三年の春に死ぬので、『楊震列伝』が延熹三年に書いている事は恐らく延熹二年(本年)の誤りで、第五種が単超に陥れられるのも延熹二年のはずです。
また、『第五鍾離宋寒列伝』では衛羽が第五種のために叔孫無忌を説得したため、叔孫無忌が党与三千余人を率いて投降しています(その後、単超が理由をつけて第五種を罪に陥れ以事陷種)、朔方に送っています。叔孫無忌を討伐できなかったことが罪とはされていません)。しかし『後漢書桓帝紀』を見ると、延熹三年(翌年)の十一月に「太山賊叔孫無忌が都尉侯章を攻めて殺す」と書かれているので、第五種と衛羽が叔孫無忌を降したというのは誤りです(以上、胡三省注参照)
 
本文に戻ります。
単超の外孫(娘の子。単超は宦官です。子ができてから宦官になったのか、養子がいたのかはわかりません)董援が朔方太守を勤めていました。朔方に送られた第五種を怨怒を抱いて待ちかまえます。
第五種の故吏(旧部下)孫斌は第五種が朔方に入ったら必ず死ぬことになると知り、客と結んで第五種を追いました。太原で第五種に追いつき、身柄を奪って帰ります。
第五種は数年間亡命した後、大赦に遇ってやっと赦免されました。
『第五鍾離宋寒列伝』によると、第五種は赦免された後に家で死にました。
 
当時は封賞が制度を越えており、内寵(宦官や姫妾等、帝王が寵愛する者)の数も増えていました。
そこで陳蕃が上書しました「諸侯とは上は二十八宿に則り、上国(京師)の藩屏になるものです(原文「夫諸侯上象四七,藩屏上国」。「四七」は「二十八宿」です。二十八宿は天体の各位置を分担しました。同じように諸侯も各地に分かれて封国を管理します)。高祖の約においては、功臣でなければ封侯しないことになっていました(非功臣不侯)。しかし聞くところによると、河南尹鄧万世(『孝桓帝紀』の注によると、鄧皇后の叔父ですの父鄧遵の微功を追録し(『資治通鑑』胡三省注によると、桓帝は鄧遵が羌を破った功績を遡って記録し、鄧万世を南郷侯に封じました)尚書黄雋の先人の絶封を更爵し(黄雋に先人の代で途絶えた爵位を改めて与え。『資治通鑑』は「絶封」を「紹封」としていますが、『後漢書陳王列伝(巻六十六)』では「絶封」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)、近習(近臣)が非義によって邑を授かり、左右が無功によって賞を与えられ(伝賞)、一門の中で侯になった者が数人に及ぶこともあるので、緯象(天象)が度を失って陰陽が序(秩序)に違えています(謬序)。臣は封事(封爵の事)が既に行われたので、これを語っても及ばないと知っています。誠に陛下がこれから止めることを欲します。
また、采女東漢後宮には皇后の下に貴人、美人、宮人、采女がいました)が数千人に上り、(必要とする)食肉衣綺、脂油粉黛(化粧品)は計り知れません(不可貲計)。鄙諺(民間の諺)にこうあります『娘が五人いる家は盗賊も近寄らない(原文「盗不過五女門」。女は出費が多いので娘が多い家は財産がない、だから盗賊もそのような家は狙わないという意味です)』。これは女が家を貧しくするからです(以女貧家也)。今、後宮の女がどうして国を貧しくさせないでしょう(豈貧国乎)。」
桓帝はこの進言を大いに採用し、宮女五百余人を外に出しました。
また、黄雋に関内侯の爵位を、鄧万世に南郷侯の爵位を下賜するだけで、他の封爵は行いませんでした。
 
桓帝が従容(落ち着いた様子。普段と変わらない平然とした様子)として侍中陳留の人爰延に問いました「朕はどのような主だ(朕何如主也)?」
爰延が答えました「陛下は漢の中主です。」
資治通鑑』胡三省注によると、「中主」というのは「中材(中才)の主」で、補佐する者によって上になることも下になることもできます。
桓帝が問いました「何をもってそう言うのだ(それはなぜだ。原文「何以言之」)?」
爰延が答えました「尚書陳蕃に事を任せたら治まり、中常侍や黄門が政治に関与したら乱れます。よって陛下は共に善になることもできれば、共に非になることもできます(陛下可與為善可與為非)。」
桓帝が言いました「昔、朱雲が朝廷で欄干を折り(廷折欄檻)、今、侍中が面前で朕の過ちを語った(面称朕違)。慎んで欠点を聞こう(敬聞闕矣)。」
桓帝は爰延を五官中郎将に任命しました。
爰延は後に昇格して大鴻臚の位に上ります。
 
客星(新星)が帝坐を通ったことがありました。
資治通鑑』胡三省注によると、帝坐は一つの星で、太微宮内にあります。
桓帝が秘かに爰延に意見を求めたため、爰延が封事(密封した上書)を提出しました「陛下は河南尹鄧万世との間に龍潜の旧(即位前からの旧交)があったため、通侯(列侯)に封じました。(陛下の)恩が公卿より重く、恵が宗室より豊かになっています。しかも最近は(彼を)引見して対博(博塞。基盤の上で行う遊戯)し、上下が媟黷(慣れ合うこと。互いに礼を失った関係になること)して尊厳を損なっています(上下媟黷有虧尊厳)。臣が聞くに、帝の左右の者とは政徳について諮る(相談する)ためにいます。善人と同じ場所にいれば日々嘉訓(有益な教訓)を聞けますが、悪人と交遊したら日々邪情(姦悪な心情)が生まれます(善人同処則日聞嘉訓。悪人従游則日生邪情)。陛下が讒諛(讒言阿諛)の人を遠ざけ、謇謇(忠貞)の士を受け入れることを願います。そうすれば災変を除くこともできます。」
桓帝はこの進言を採用できませんでした。
 
爰延は病と称し、免官されて家に帰りました。
後漢書楊李翟応霍爰徐列伝(巻四十八)』によると、爰延は霊帝時代になって再び特別に招かれましたが、京師には行かず、病死しました。
 
[二十] 『後漢書桓帝紀』からです。
天竺国が来献しました(使者を送って貢物を献上しました)
 
 
 
次回に続きます。