東漢時代248 桓帝(二十六) 各地の蜂起 162年(1)

今回は東漢桓帝延熹五年です。二回に分けます。
 
壬寅 162
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
春正月、太官右監丞桓帝永寿二年・156年参照)を廃止しました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
壬午(二十九日)、南宮の丙署で火災がありました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、沈氐羌が張掖と酒泉を侵しました。
 
皇甫規が先零諸種羌(前年帰順しました)を動員して共に隴右を討ちましたが、道路が隔絶されており(東羌が一帯を占拠していました。先に帰順した先零羌も東羌に属します。安定、北地、上郡、西河に住む羌を「東羌」といい、隴西、漢陽から金城塞外に住む羌を「西羌」といいました。順帝永和六年141年参照)、軍中で大疫が流行して死者が十分の三四に上りました。
しかし皇甫規が自ら庵廬(軍中の営帳)に入って将士を巡視したため、三軍が感悦しました。
 
東羌が(皇甫規の名声を聞いて)使者を派遣して投降を乞いました。涼州への道が再び開通します。
 
以前、安定太守孫雋は見境なく財を奪っており(受取狼藉)、属国都尉李翕と督軍御史張稟も多くの降羌を殺しました。
資治通鑑』胡三省注によると、李翕は安定属国都尉のようですが、『後漢書郡国志』には「安定属国」がありません。張稟は御史として軍を監督したので、「督軍御史」といいます。
 
また、涼州刺史郭閎と漢陽太守趙熹はどちらも老弱で職責を全うできないのに、権貴に頼って法度を守りませんでした。
 
皇甫規が涼州に入ると、彼等の罪を全て條奏(箇条書きにして上奏すること)しました。ある者は罷免され、ある者は誅殺されます。
それを聞いた羌人はそろって態度を改めました(翕然反善)。沈氐の大豪滇昌、飢恬等十余万口が皇甫規を訪ねて投降します(沈氐羌も上郡に住んでいたので東羌です。桓帝延熹九年・166年に記述があります)
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
壬午、済北王劉次が死にました。
 
劉次の諡号は孝王で、父は釐王劉安(または「劉安国」)、祖父は恵王劉寿(章帝の子)です。
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉次の死後、子の劉鸞が継ぎました。諡号は書かれていません。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、長沙の賊が蜂起して桂陽と蒼梧を侵しました。
 
『孝桓帝紀』の注によると、(長沙の賊は)蒼梧を攻略して銅の虎符を奪いました。太守甘定と刺史侯輔はそれぞれ逃走して城を出ました。
桂陽は荊州、蒼梧は交州(交趾州)に属します。侯輔は交趾刺史だと思われます。
 
資治通鑑』は五月に「交趾刺史と蒼梧太守が情報を聞いて逃走した」と書いています。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
驚馬(驚いた馬)と逸象(逃走・奔走した象)が宮殿に突入しました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙丑(中華書局『白話資治通鑑』は「乙丑」と下の「戊辰」を恐らく誤りとしています)、恭陵(安帝陵)の東闕で火災がありました。
戊辰、虎賁掖門で火災がありました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
己巳、太学西門が自然に崩れました(自壊)
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、康陵(殤帝陵)の園寝で火災がありました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
長沙・零陵の賊が起きて桂陽、蒼梧、南海、交趾交阯)に進攻しました。
 
資治通鑑』はここで「交趾刺史と蒼梧太守が情報を聞いて逃走した(望風逃奔)」と書いています(上述)
 
朝廷は御史中丞盛脩(盛修)を派遣し、州郡の募兵を監督して討伐させましたが、勝てませんでした。
 
[十一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙亥(二十三日)、京師で地震がありました。
 
桓帝が詔を発して公・卿にそれぞれ封事(密封した上書)を提出させました。
 
[十二] 『後漢書孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲申(『後漢書桓帝紀』『後漢書五行志二』『資治通鑑』とも「五月」に書いていますが、中華書局『白話資治通鑑』は「六月初三日」としています)、中藏府の丞禄署(『資治通鑑』では「丞禄署」、『後漢書(『桓帝紀』と『五行志二』)』では「承禄署」です。『資治通鑑』胡三省注によると、「中藏府」は宮中の幣帛金銀諸貨物を管理します。丞禄署(承禄署)は俸禄を扱う官署ではないかと思われます)で火災がありました。
 
秋七月己未(初八日)、南宮の承善闥(「闥」は小門、または宮中の門です)で火災がありました。
 
[十三] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
鳥吾羌が漢陽を侵しましたが、隴西金城諸郡の兵が討伐して破りました。
 
『孝桓帝紀』『資治通鑑』とも原文は「鳥吾羌寇漢陽隴西金城諸郡兵討破之」です。「鳥吾羌が漢陽、隴西、金城を侵し、諸郡の兵がこれを討破した」という意味かもしれません。
後漢書西羌伝(巻八十七)』も「鳥吾種復寇漢陽隴西金城諸郡兵共撃破之。各還降附(鳥吾種はそれぞれ還って帰順した)」と書いており、どこで区切るのかがはっきりしません。
 
[十四] 『後漢書桓帝紀』からです。
八月庚子、桓帝が詔を発し、虎賁羽林で官署にいて任務を負えない者(住寺不任事者)は俸禄を半分にして冬衣も支給しないことにしました。また、公卿以下には半数の冬衣を支給することにしました。
『孝桓帝紀』の注によると、京師が水旱疫病に襲われて帑藏(国庫)が空になったため、虎賁羽林で任務を負えず官署に住んでいる者の俸禄を半減しました。任務を負えない者(不任事者)というのは、疲弱で軍事の任に堪えられない者を指します。
 
[十五] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
艾県の賊が長沙の郡県を攻撃し、益陽令を殺しました。部衆が一万余人に拡大します。
 
後漢書張法滕馮度楊列伝(巻三十八)』の「度尚」の項によると、長沙零陵の賊が合わせて七八千人になり、将軍を自称して桂陽、蒼梧、南海、交阯に入ったため、交阯刺史および蒼梧太守が情報を聞いて逃奔し、二郡(交阯郡と蒼梧郡)とも攻略されました。朝廷は御史中丞盛修を派遣し、兵を募って討伐させましたが、やはり勝てません(上述)
しかも豫章郡艾県から六百余人が募集に応じたのに賞直(褒賞代価)を得られなかったため、怨恚(怨恨)して反しました。彼等は長沙の郡県を焼き、益陽を侵して県令を殺し、部衆が強盛になりました。
『孝桓帝紀』の注にはこう書かれています「当時、賊は刺史の車に乗り、臨湘に屯拠(占拠駐屯)して太守の舍()に住んだ。賊は一万人以上になり、益陽に駐屯して長吏を殺した」。
 
資治通鑑』に戻ります。
謁者馬睦が荊州刺史劉度を監督して艾県の賊を撃ちましたが、軍が敗れて馬睦と劉度は奔走しました。
 
零陵蛮もまた反して長沙を侵しました。
 
[十六] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
己卯、琅邪の都尉官桓帝永寿元年・155年参照)を廃しました。



次回に続きます。