東漢時代248 桓帝(二十六) 各地の蜂起 162年(1)
壬寅 162年
壬午(二十九日)、南宮の丙署で火災がありました。
三月、沈氐羌が張掖と酒泉を侵しました。
皇甫規が先零諸種羌(前年帰順しました)を動員して共に隴右を討ちましたが、道路が隔絶されており(東羌が一帯を占拠していました。先に帰順した先零羌も東羌に属します。安定、北地、上郡、西河に住む羌を「東羌」といい、隴西、漢陽から金城塞外に住む羌を「西羌」といいました。順帝永和六年・141年参照)、軍中で大疫が流行して死者が十分の三四に上りました。
しかし皇甫規が自ら庵廬(軍中の営帳)に入って将士を巡視したため、三軍が感悦しました。
以前、安定太守・孫雋は見境なく財を奪っており(受取狼藉)、属国都尉・李翕と督軍御史・張稟も多くの降羌を殺しました。
壬午、済北王・劉次が死にました。
夏四月、長沙の賊が蜂起して桂陽と蒼梧を侵しました。
『資治通鑑』は五月に「交趾刺史と蒼梧太守が情報を聞いて逃走した」と書いています。
驚馬(驚いた馬)と逸象(逃走・奔走した象)が宮殿に突入しました。
戊辰、虎賁掖門で火災がありました。
五月、康陵(殤帝陵)の園寝で火災がありました。
長沙・零陵の賊が起きて桂陽、蒼梧、南海、交趾(交阯)に進攻しました。
朝廷は御史中丞・盛脩(盛修)を派遣し、州郡の募兵を監督して討伐させましたが、勝てませんでした。
甲申(『後漢書・孝桓帝紀』『後漢書・五行志二』『資治通鑑』とも「五月」に書いていますが、中華書局『白話資治通鑑』は「六月初三日」としています)、中藏府の丞禄署(『資治通鑑』では「丞禄署」、『後漢書(『孝桓帝紀』と『五行志二』)』では「承禄署」です。『資治通鑑』胡三省注によると、「中藏府」は宮中の幣帛・金銀・諸貨物を管理します。丞禄署(承禄署)は俸禄を扱う官署ではないかと思われます)で火災がありました。
秋七月己未(初八日)、南宮の承善闥(「闥」は小門、または宮中の門です)で火災がありました。
鳥吾羌が漢陽を侵しましたが、隴西・金城諸郡の兵が討伐して破りました。
『孝桓帝紀』の注によると、京師が水旱・疫病に襲われて帑藏(国庫)が空になったため、虎賁・羽林で任務を負えず官署に住んでいる者の俸禄を半減しました。任務を負えない者(不任事者)というのは、疲弱で軍事の任に堪えられない者を指します。
艾県の賊が長沙の郡県を攻撃し、益陽令を殺しました。部衆が一万余人に拡大します。
『後漢書・張法滕馮度楊列伝(巻三十八)』の「度尚」の項によると、長沙・零陵の賊が合わせて七八千人になり、将軍を自称して桂陽、蒼梧、南海、交阯に入ったため、交阯刺史および蒼梧太守が情報を聞いて逃奔し、二郡(交阯郡と蒼梧郡)とも攻略されました。朝廷は御史中丞・盛修を派遣し、兵を募って討伐させましたが、やはり勝てません(上述)。
しかも豫章郡艾県から六百余人が募集に応じたのに賞直(褒賞・代価)を得られなかったため、怨恚(怨恨)して反しました。彼等は長沙の郡県を焼き、益陽を侵して県令を殺し、部衆が強盛になりました。
『資治通鑑』に戻ります。
零陵蛮もまた反して長沙を侵しました。
次回に続きます。