東漢時代253 桓帝(三十一) 劉悝 165年(1)
乙巳 165年
勃海王・劉悝(桓帝の弟)は素行が険僻(険悪)で僭傲(驕慢無礼)かつ不法な事が多かったため、北軍中候・陳留の人・史弼が封事(密封した上書)を提出しました「臣が聞くに、帝王とは親戚に対して、愛が盛んであったとしても必ず威をもって示し(愛雖隆必示之以威)、体(身分)が尊貴であったとしても必ず法度をもって禁じるものです(体雖貴必禁之以度)。このようであるので、和睦の道が興こり、骨肉の恩が完遂されるのです。しかし勃海王・悝について窺い聞いたところ、外では剽軽不逞の徒(強健敏捷で志を得ていない者、不満を抱いている者)を集め、内では酒楽(酒や音楽)に荒れており、出入りに常が無く(原文「出入無常」。行動に秩序がないという意味です)、共に群居しているのは皆、家の棄子(家族から棄てられた者)、朝の斥臣(朝廷から排斥された者)なので、(このままでは将来)必ず羊勝(西漢景帝中二年・前148年参照)、伍被(西漢武帝元狩元年・前122年参照)の変が起きます。しかし州司(州刺史に属す官員)は敢えて弾糾(糾弾)することができず、(王国の)傅相も匡輔(矯正・輔佐)ができず、陛下は(兄弟の)友愛が盛んで遏絶(誅滅)するのが忍びないので(陛下隆於友于不忍遏絶)、(渤海王の悪行が)滋蔓(蔓延)して害がますます大きくなることを恐れます(恐遂滋蔓為害彌大)。臣の奏(上奏文)を露わにして(公開して) 百僚に宣示し、法を平処(評議・判決)することを乞います。法が決して罪が定まってから(陛下が)不忍の詔(弟を処罰するのが忍びないという詔)を下し、臣下が(渤海王を処罰するように)固執してから(陛下が)わずかに同意するべきです(然後少有所許)。こうすれば、聖朝には傷親の譏(親族を傷つけたという批難)がなく、勃海には享国の慶(国を享受する福)があります。こうしなかったら、将来、大獄が興きることを懼れます。」
桓帝はこの進言を採用しませんでした。
果たして劉悝は不道(造反)を謀るようになりました。
有司(官員)が劉悝の王位を廃すように請います。
桓帝は詔を発して癭陶王に落とし、食邑を一県にしました。
丙申晦、日食がありました。
千秋万歳殿で火災がありました。
中常侍・侯覧の兄(『後漢書・宦者列伝(巻七十八)』では「兄」ですが、『後漢書・楊震列伝(巻五十四)』では「弟」です。『資治通鑑』は『宦者列伝』に従っています)・侯参が益州刺史になりましたが、残暴貪婪で、汚職による財を溜めて億を数えました(累臧億計)。
太尉・楊秉が弾劾の上奏を行い、檻車で侯参を召還したため、侯参は道中で自殺しました。侯参の車重(物資を運ぶ車)三百余輌を調べると、全て金銀錦帛が積まれていました。
これを機に楊秉が上奏しました「臣が旧典を案じるに(考察するに)、宦者とは元々省闥(禁中)で給使(服従して仕えること)して日が暮れてから夜を守るだけでしたが(在給使省闥司昏守夜)、今は多くの者が過寵を受けて政権を操っており(猥受過寵執政操権)、附会した者(阿附した者)はそれによって公けに褒挙(推挙)され、違忤した者(逆らった者)は理由を探して中傷されています(求事中傷)。また、(宦官の)住居は王侯に則り(居法王公)、富は国家に匹敵し(富擬国家)、飲食は肴膳を極め、僕妾も紈素(純白の絹)を充たしています。
中常侍・侯覧の弟・参は貪残元悪(大悪)だったため、自ら禍滅を招きました。侯覧は顧みて罪の重さを知り(顧知釁重)、必ず自疑の意(自分に危険があるのではないかという不安、疑い)を抱いています。臣の愚見によるなら、今後は親近するべきではありません。昔、(斉)懿公は邴𨞕の父に刑を与え、閻職の妻を奪いましたが、二人を参乗(馬車に同乗する近臣)にしたため、最後は竹中の難を招きました(東周匡王四年・前609年参照)。侯覧は急いで屛斥(排斥)し、虎がいる所に投げ捨てるべきです(原文「投畀有虎」。『詩経・小雅・巷伯』の「取彼讒人,投畀豺虎(人を害す者を捕まえて豺虎に投げ与える)」が元になっています)。このような人は恩によって寛恕できるものではありません。免官して本郡に送り帰すことを請います。」
上奏文が提出されると、尚書が楊秉の掾属を招いて楊秉を譴責する質問をしました「官を設けて職を分け、それぞれに司存(職責)がある。三公は外を統べ、御史が内を察する(観察する)ものだ。今、(職権を)越えて近官(宮内の宦官)について上奏したが、経典・漢制の何を依拠としたのか。公開して詳しく答えよ(其開公具対)。」
楊秉が掾属に答えさせました「『春秋伝』はこう言っています『国君の悪を除く時は、自分の力だけを見る(自分にどれだけの力があるかを見極めて、最大限の力を尽くす。原文「除君之悪,唯力是視」)。』鄧通が懈慢(怠慢)だった時、申屠嘉が鄧通を召して詰責(詰問譴責)し、文帝は(申屠嘉に)従って(鄧通のために)命乞いをしました(西漢文帝後二年・前162年参照)。漢世の故事において、三公の職が統べない(管理しない)ところはありません。」
尚書は詰問できなくなりました。
左悺と左称はどちらも自殺します。
桓帝は詔を発して具瑗を都郷侯に落としました。
次回に続きます。