東漢時代271 霊帝(六) 竇武の失敗 168年(6)

今回で東漢霊帝建寧元年が終わります。
 
[十六(続き)] 難(異変)を聞いた陳蕃が官属・諸生八十余人を従え、刃(剣)を抜いて承明門に突入して尚書門に到りました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』はこう書いています。
陳蕃が承明門に到りましたが、使者(従僕。または宮中の命を受けた者)が中に入れず、「公は詔召を被っていません。なぜ兵を率いて入宮できるのですか」と問いました。
陳蕃が言いました「趙鞅は兵を専らにして(勝手に兵を率いて)宮に向かい、君側の悪を逐った春秋時代、晋の故事です)。『春秋』はこれを義とした。」
ある使者が外に出て門を開いたため、陳蕃は尚書門に到りました。
資治通鑑』本文はこの内容を採用せず、范瞱の『後漢書(陳王列伝巻六十六)』に従っています。
 
陳蕃が腕を振って叫びました(原文「攘臂呼曰」。「攘臂」は袖を捲るという意味で、憤慨を表します)「大将軍の忠は国を守るためだ(忠以衛国)。黄門(宦官)が反逆したのに、なぜ竇氏が不道だと言うのか!」
この時、王甫が外に出て陳蕃に遭遇しました。ちょうどこの言葉を聞いたため、陳蕃を譴責します「先帝が天下を棄てて崩御して)山陵もまだ完成していないのに、竇武は何の功があって兄弟父子ともに三侯に封じられたのだ(竇武が聞喜侯に封じられた他、竇武の子竇機が渭陽侯に、兄の子竇紹が鄠侯に、竇靖(竇紹の弟)が西郷侯に封じられました)。また、音楽を設けて宴を開き(設楽飲讌)、多く掖庭の宮人を取り、旬日(十日)の間で貲財(資産。財産)が巨万になった。大臣がこのようであるのに、これを道というのか(これこそ不道というのだ。原文「為是道邪」)!公(陳蕃)は宰輔でありながら、軽率に徒党を組んだ(苟相阿党)。どこに賊を求めるのだ(竇武と陳蕃こそが賊であるのに、どこに行って賊を捕えるつもりだ。原文「復何求賊」)!」
王甫は剣士に命じて陳蕃を逮捕させました。
陳蕃は剣を抜いて王甫を叱咤しました。言葉も顔色もますます厳しくなります。
しかし剣士が陳蕃を捕えて北寺獄に送りました。
『陳王列伝』は「陳蕃が剣を抜いて王甫を叱咤したため、王甫の兵は近づくことができなかった。そこで兵を増やして数十に包囲し、ついに陳蕃を捕えて黄門北寺獄に送った」と書いていますが、『資治通鑑』は省略しています。
 
黄門従官騶(宦官に従う騎士。「騶」は騎士です)が陳蕃を蹋踧(踏んだり蹴ること)して言いました「死老魅(死にぞこないの化け物)!これでもまだ我々の員数を減らし、我々の稟假(俸禄と貸借。収入)を損なうことができるか(復能損我曹員数、我曹稟假不)!」
陳蕃は即日殺されました。
 
当時、護匈奴中郎将張奐が招かれて京師に還っていました。
曹節等は張奐が京師に到着したばかりで本謀(主謀。謀略の真相)を知らないと判断しました。そこで、矯制(偽造した皇帝の命令)によって少府周靖を行車騎将軍(車騎将軍代行)に任命し、符節を与え(加節)、張奐と共に五営士を指揮して竇武を討たせました。
夜漏(夜の時間)が尽きる時(空が明るくなり始めた時)、王甫も虎賁羽林等合計千余人を指揮し、朱雀掖門を出て駐屯しました。
資治通鑑』胡三省注によると、北宮南掖門を朱雀門といいます。
 
王甫が張奐等と合流しました。暫くして全軍が闕下に集結し、竇武の陣と対峙します。王甫の兵力がしだいに拡大していきました。
そこで王甫は軍士を使って竇武の軍に大声でこう呼びかけさせました「竇武が反した!汝等は皆、禁兵であり、宮省で宿衛するべきなのに、なぜ反した者に従うのだ(何故隨反者乎)!先に降った者には賞がある!」
営府(『資治通鑑』胡三省注によると、「営府」は五営校尉府を指します)の兵はかねてから中官(宦官)に畏服していたため、竇武軍の兵が徐々に王甫に帰順していきました。日が出てから食時(朝食の時間。午前七時から九時)までに(自旦至食時)、兵のほとんどが投降します。
竇武と竇紹は逃走しましたが、諸軍が追撃して包囲したため、二人とも自殺しました。
二人の首は雒陽の都亭に晒され(梟首)、宗親・賓客・姻属も逮捕されて全て誅殺されます。
侍中劉瑜、屯騎校尉馮述も族滅に遭いました。
 
宦官は更に虎賁中郎将河間の人劉淑や元尚書会稽の人魏朗も竇武等と通謀したとして誣告しました。劉淑と魏朗も自殺します。
 
太后竇氏は南宮に遷され(『竇何列伝』によると竇太后は雲台に遷されました)、竇武の家属は日南に放逐されました(竇武の宗親・賓客・姻属は全て誅殺されたはずです。この「家属」は竇武の家に仕えていた者だと思われます)
 
後漢書霊帝紀』はこの事件を「中常侍曹節が矯詔して(詔を偽って)太傅陳蕃、大将軍竇武および尚書尹勳、侍中劉瑜、屯騎校尉馮述を誅殺し、全て族滅した(皆夷其族)。皇太后は南宮に遷された」と書いています。
 
資治通鑑』に戻ります。
公卿以下で以前、陳蕃や竇武に推挙された者およびその門生や故吏(旧部下)は皆、免官のうえ禁錮に処されました。
議郎勃海の人巴粛(『資治通鑑』胡三省注によると、巴氏は巴国の後代です。後漢には揚州刺史巴祗がいました)はかつて竇武等と共謀していましたが、曹節等がそれを知らなかったため、禁錮に処されただけでした。しかし後に曹節等が巴粛の共謀を知り、逮捕しようとしました。
巴粛は自ら車に乗って県の官署を訪れました(『資治通鑑』胡三省注によると、巴粛は勃海高城県の人です)
県令は巴粛に会うと閤(門。または「閣(後閣)」と同じ意味で奥の部屋)に入れ、県令の印綬を解いて共に去ろうとしました。
しかし巴粛はこう言いました「人の臣となった者は、謀があったら隠してはならず、罪があったら刑から逃げてはならないものです。既にその謀を隠していないのに、その刑から逃げられるでしょうか(有謀不敢隠,有罪不逃刑。既不隠其謀矣,又敢逃其刑乎)。」
巴粛は誅殺されました。
 
曹節は長楽衛尉に遷り、育陽侯に封じられました。
王甫は中常侍になりましたが、黄門令の官はそのままとされます。
朱瑀、共普、張亮等の六人が皆、列侯になり、その他にも十一人が関内侯になりました。
この後、群小(小人の群れ)が志を得て、士大夫は皆、気(意気。気概)を失いました(喪気)
 
陳蕃の友人である陳留の人朱震が陳蕃の死体を収めて埋葬し、陳蕃の子逸を匿いましたが、事が発覚して獄に繋がれ、家族も逮捕されました(合門桎梏)
しかし朱震が拷問を受けても(受考掠)誓って発言しなかったため、陳逸は禍から逃れることができました。
 
竇武の府掾で桂陽の人胡騰が竇武の死体を殯斂(死者を棺に納めること)して葬儀を行ったため、禁錮に処されました。
この時、竇武の孫輔はわずか二歳でした。胡騰は輔を自分の子と偽って令史(『資治通鑑』胡三省注によると、大将軍府には令史および御属が三十一人いました)南陽の人張敞と共に零陵界中で隠して育てました。そのおかげで竇輔も禍から逃れられました。
 
張奐は大司農に遷され、功績によって封侯されました。しかし張奐は曹節等に売られた(利用された)ことを深く憎んだため、堅く辞退して受け入れませんでした。
後漢書皇甫張段列伝(巻六十五)』によると、竇武が自殺して陳蕃が害されてから、張奐は少府に遷り、更に大司農になって封侯されましたが、堅く辞退しました。但し、張奐が堅く辞退したのは封侯されたことで、朝廷から退いたわけではありません。翌年には太常になります。
 
[十七] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
司徒胡広を太傅に任命して尚書の政務を主管させ(録尚書事)、司空劉寵を司徒に、大鴻臚許栩を司空に任命しました。
 
[十八] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月甲辰晦、日食がありました。
 
天下の繋囚(囚人)でまだ罪が決していない者に縑(絹の一種)で贖罪させました。納める縑の量はそれぞれ差があります。
 
[十九] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、太尉劉矩を罷免し、太僕沛国の人聞人襲(聞人が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、魯で「聞人(名望がある人)」と称された少正卯の後代が聞人を氏にしました)を太尉に任命しました。
 
『孝霊帝紀』の注によると、聞人襲の字は定卿です。
 
[二十] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、鮮卑と濊貊が幽并二州を侵しました。
 
[二十一] 『資治通鑑』からです。
この年、疏勒王の季父(叔父)和得が王を殺して自立しました。
 
[二十二] 『資治通鑑』からです。
烏桓大人上谷難楼は九千余落(「落」は通常「村落部落」の意味ですが、ここでは数が多いので「戸」の意味だと思われます)の衆を擁しており、遼西の丘力居も五千余落の衆を擁していました。どちらも王を自称しています。
また、遼東の蘇僕延は千余落の衆を擁して峭王を自称し、右北平の烏延は八百余落の衆を擁して汗魯王を自称していました。
資治通鑑』胡三省注は「史書烏桓の強盛を語っている(史言烏桓強盛)」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。