東漢時代277 霊帝(十二) 孟佗 170~171年
庚戌 170年
春正月、河内で妻が夫を食べ、河南で夫が妻を食べました。
三月丙寅晦、日食がありました。
段熲を召して京師に還らせ、侍中に任命しました。
段熲は辺境にいた十余年の間、一日も蓐寝(蓆で寝ること。安眠)したことがなく、将士と甘苦を共にしました。
そのため、将士が皆、喜んで段熲のために死戦し、至る所で功を立てることができました。
夏四月、太尉・郭禧を罷免し、太中大夫・聞人襲を太尉に任命しました。
秋七月、司空・劉囂を罷免しました。
冬、済南賊が挙兵して東平陵を攻めました。
冬、鬱林太守・谷永が恩信によって烏滸人十余万を招降しました。
鬱林の烏滸人が相次いで投降し、全て内属(帰順)したため、冠帯を授けて七県を置きました。
烏滸の地はかつて西甌駱越が居住していた場所です。
扶風の人・孟佗は資産が豊富だったため、奴と友人になりました(原文は「與奴朋結」です。監奴と友人になったのだと思いますが、監奴を通して張讓家の多数の奴僕と交わりを結んだという意味かもしれません)。
孟佗は家財を傾けて贈呈し、自分が好きな物でも一つも残しませんでした(傾竭饋問,無所遺愛)。
奴僕達は皆、これを徳と思い(皆、感謝し。原文「奴咸徳之」)、孟佗が欲していることを問いました。
すると孟佗はこう言いました「私の望みは汝曹(汝等。あなた達)が私のために一拝することだけです(吾望汝曹為我一拜耳)。」
当時、多くの賓客が張讓に謁見を求めており、訪問者の車が常に数百千輌を数えました。
孟佗が張讓を訪ねた時も、後から来たため前に進めなくなります。そこで監奴が諸倉頭(諸奴僕)を率いて孟佗を出迎え、路上で拝礼してから、共に輿に載せて門を入りました(原文「共轝車入門」。「轝車」は「小車」、または「輿(こし。人を載せて持ち上げて運ぶ乗り物)」です。「共轝車」というのは、孟佗を輿に載せて運んだのだと思いますが、あるいは孟佗の車を先導して案内したという意味かもしれません)。
この様子を見ていた賓客達は皆驚いて孟佗が張讓に厚遇されていると思いました(謂佗善於讓)。そこで争って珍玩を贈るようになります。
張佗がそれを分けて張讓に譲ったため、張讓は大いに喜んで孟佗を涼州刺史にしました。
「曹寛」を「戊己校尉・曹寛」とするのは『資治通鑑』の記述で、『後漢書・西域伝(巻八十八)』では「戊司馬(または「戊己司馬」)・曹寛」となっています。中華書局『後漢書・西域伝』の校勘記によると、「曹全碑」という碑があり、曹全が西域戊部司馬に任命されて疏勒を討伐しています。曹全の字は景完といいます。校勘記は、碑が建てられてから范瞱の『後漢書』が編纂されるまで二百余年の隔たりがあり、伝録の過程で誤字や脱字があったため、「曹景完」が誤って「曹寛」と書かれるようになったと解説しています。
しかし「曹全」の字が「景完」で、誤って「曹寛」になった、というのは無理があるように思えます。あるいは、「戊己校尉・曹寛」と「戊部司馬・曹全」は別の人物で、二人とも疏勒討伐に参加したのかもしれません。その場合は、『後漢書』が「戊司馬(または「戊己司馬」)」を「曹寛」と書いているのは誤りで、「戊己校尉・曹寛と戊部司馬・曹全」とするのが正しくなります。
本文に戻ります。
漢軍が楨中城を攻めて四十余日が経ちましたが、攻略できなかったため引き返しました。
この後、疏勒では王が繰り返して殺害されましたが、東漢の朝廷は治めることができませんでした。
辛亥 171年
三月辛酉朔、日食がありました。
太尉・聞人襲を罷免し、太僕・汝南の人・李咸を太尉にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、李咸の字は元卓で、汝南西平の人です。
大疫に襲われました。
中謁者を巡行させて医薬を届けました。
五月、河東の地が裂けて、雹が降り、山水が溢れ出ました(山水暴出)。
秋七月、司空・来豔が罷免されました。
癸丑(中華書局『白話資治』は「癸丑」を恐らく誤りとしてしています)、貴人・宋氏を皇后に立てました。
宋皇后は執金吾・宋酆の娘です。
『孝霊帝紀』の注によると、前年、掖庭に入って貴人になりました。
董萌は獄に下されて死にました。
次回に続きます。