東漢時代277 霊帝(十二) 孟佗 170~171年

今回は東漢霊帝建寧三年と四年です。
 
庚戌 170
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
春正月、河内で妻が夫を食べ、河南で夫が妻を食べました。
原文は「河内人婦食夫,河南人夫食婦」です。『後漢書五行志五』は「河内婦食夫,河南夫食婦」と書いています。『孝霊帝紀』にある「河内人」「河南人」の「人」は余分なようです。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月丙寅晦、日食がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
段熲を召して京師に還らせ、侍中に任命しました。
段熲は辺境にいた十余年の間、一日も蓐寝(蓆で寝ること。安眠)したことがなく、将士と甘苦を共にしました。
そのため、将士が皆、喜んで段熲のために死戦し、至る所で功を立てることができました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、太尉郭禧を罷免し、太中大夫聞人襲を太尉に任命しました。
 
秋七月、司空劉囂を罷免しました。
八月、大鴻臚梁国の人橋玄(資治通鑑』胡三省注によると、黄帝が橋山に埋葬されて子孫が冢()を守ったため、ここから橋氏が生まれました)を司空に任命しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月、執金吾董寵が永楽太后(董太后。永楽宮に住んでいます)の偽の命令を発して私事を請託したため(矯永楽太后属請)、罪を問われて獄に下され、死亡しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
冬、済南賊が挙兵して東平陵を攻めました。
『孝霊帝紀』によると、東平陵は済南国(済南国は安帝延光四年・125年に廃されたので、当時は郡のはずです)に属す県です。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬、鬱林太守谷永が恩信によって烏滸人十余万を招降しました。
鬱林の烏滸人が相次いで投降し、全て内属(帰順)したため、冠帯を授けて七県を置きました。
 
後漢書霊帝紀』の注によると、烏滸は南方夷の号です。
人を食べる風俗があり、鼻で水を飲んだようです(『孝霊帝紀』の注は「水」ですが、『資治通鑑』胡三省注は「酒」としています)。食事は普通に口を使いました(其俗食人,以鼻飲水,口中進噉如故)
烏滸の地はかつて西甌駱越が居住していた場所です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
かつて中常侍張讓の監奴(奴僕の頭)が家事の管理を任せられており、威勢が盛んでした(威形諠赫)
扶風の人孟佗は資産が豊富だったため、奴と友人になりました(原文は「與奴朋結」です。監奴と友人になったのだと思いますが、監奴を通して張讓家の多数の奴僕と交わりを結んだという意味かもしれません)
孟佗は家財を傾けて贈呈し、自分が好きな物でも一つも残しませんでした(傾竭饋問,無所遺愛)
奴僕達は皆、これを徳と思い(皆、感謝し。原文「奴咸徳之」)、孟佗が欲していることを問いました。
すると孟佗はこう言いました「私の望みは汝曹(汝等。あなた達)が私のために一拝することだけです(吾望汝曹為我一拜耳)。」
当時、多くの賓客が張讓に謁見を求めており、訪問者の車が常に数百千輌を数えました。
孟佗が張讓を訪ねた時も、後から来たため前に進めなくなります。そこで監奴が諸倉頭(諸奴僕)を率いて孟佗を出迎え、路上で拝礼してから、共に輿に載せて門を入りました(原文「共轝車入門」。「轝車」は「小車」、または「輿(こし。人を載せて持ち上げて運ぶ乗り物)」です。「共轝車」というのは、孟佗を輿に載せて運んだのだと思いますが、あるいは孟佗の車を先導して案内したという意味かもしれません)
この様子を見ていた賓客達は皆驚いて孟佗が張讓に厚遇されていると思いました(謂佗善於讓)。そこで争って珍玩を贈るようになります。
張佗がそれを分けて張讓に譲ったため、張讓は大いに喜んで孟佗を涼州刺史にしました。
 
本年、涼州刺史孟佗が従事任渉を派遣して疏勒を討たせました霊帝建寧元年168年に疏勒王の季父(叔父)和得が王を殺して自立したためです)
任渉は敦煌兵五百人を指揮し、戊己校尉曹寛、西域長史張宴と共に焉耆、亀茲、車師前後部の兵合わせて三万余人を率いて疏勒の楨中城を撃ちます。
「曹寛」を「戊己校尉曹寛」とするのは『資治通鑑』の記述で、『後漢書西域伝(巻八十八)』では「戊司馬(または「戊己司馬」)曹寛」となっています。中華書局『後漢書西域伝』の校勘記によると、「曹全碑」という碑があり、曹全が西域戊部司馬に任命されて疏勒を討伐しています。曹全の字は景完といいます。校勘記は、碑が建てられてから范瞱の『後漢書』が編纂されるまで二百余年の隔たりがあり、伝録の過程で誤字や脱字があったため、「曹景完」が誤って「曹寛」と書かれるようになったと解説しています。
しかし「曹全」の字が「景完」で、誤って「曹寛」になった、というのは無理があるように思えます。あるいは、「戊己校尉曹寛」と「戊部司馬曹全」は別の人物で、二人とも疏勒討伐に参加したのかもしれません。その場合は、『後漢書』が「戊司馬(または「戊己司馬」)」を「曹寛」と書いているのは誤りで、「戊己校尉曹寛と戊部司馬曹全」とするのが正しくなります。
 
本文に戻ります。
漢軍が楨中城を攻めて四十余日が経ちましたが、攻略できなかったため引き返しました。
この後、疏勒では王が繰り返して殺害されましたが、東漢の朝廷は治めることができませんでした。
 
 
 
辛亥 171
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月甲子(初三日)霊帝元服しました(加元服
天下に大赦し、公卿以下に差をつけて賞賜を与えました(賜公卿以下各有差)。但し党人だけは赦しませんでした。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月癸卯(十三日)地震がありました。
海水が溢れ、黄河の水が清みました(澄みました。原文「河水清」)
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月辛酉朔、日食がありました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
太尉聞人襲を罷免し、太僕汝南の人李咸を太尉にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、李咸の字は元卓で、汝南西平の人です。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
霊帝が詔を発し、公卿から六百石に至る官員にそれぞれ封事(密封した上書)を提出させました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
大疫に襲われました。
中謁者を巡行させて医薬を届けました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
司徒許訓を罷免し、司空橋玄を司徒にしました。
夏四月、太常南陽の人来豔を司空にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、来豔の字は季徳で、南陽新野の人です。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
五月、河東の地が裂けて、雹が降り、山水が溢れ出ました(山水暴出)
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、司空来豔が罷免されました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸丑(中華書局『白話資治』は「癸丑」を恐らく誤りとしてしています)、貴人宋氏を皇后に立てました。
宋皇后は執金吾宋酆の娘です。
『孝霊帝紀』の注によると、前年、掖庭に入って貴人になりました。
 
[十一] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
司徒橋玄を罷免し、太常南陽の人宗俱を司空に、元司空許栩を司徒にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、宗俱の字は伯儷で、南陽安衆の人です。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
霊帝は竇太后に援立の功(即位を助けた功績)があると考えました。
冬十月戊子朔、霊帝が群臣を率いて南宮で竇太后を朝見しました。霊帝自ら食事を進めて長寿を祝います(親饋上寿)
そこで黄門令董萌が頻繁に竇太后の冤罪を訴えました。
霊帝は深く納得して以前よりも待遇を厚くします(原文「供養資奉有加於前」。「供養」と「資奉」は同じ意味で、生活に必要な物を提供したり父母を扶養することです)
ところが曹節や王甫がこれを嫌い、董萌が永楽宮(董太后霊帝の実母)を謗っていると誣告しました。
董萌は獄に下されて死にました。
 
[十三] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
鮮卑并州を侵しました。
 
 
 
次回に続きます。