東漢時代279 霊帝(十四) 朱雀闕事件 172年(2)

今回は東漢霊帝熹平元年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
ある人が朱雀闕(明帝永平二年59年)十一月に北宮を築きました。『資治通鑑』胡三省注によると、朱爵闕は南司馬門闕で、宮門の外に位置します)にこう書きました「天下が大乱し、曹節、王甫が太后を幽殺した(『後漢書宦者列伝(巻七十八)』ではこの後、「常侍侯覧が多くの党人を殺した(常侍侯覧多殺党人)という一文がありますが、当時、侯覧は既に死んでいたので、『資治通鑑』は省略しています)。公卿は皆、何もせず俸禄を貪るだけで、忠言の者がいない(天下大乱,曹節王甫幽殺太后,公卿皆尸禄無忠言者)。」
 
霊帝が詔を発して司隸校尉劉猛に犯人の逮捕を命じ、十日ごとに報告させました(十日一会)
しかし劉猛は誹謗の文書が言直であると考え、急いで逮捕しようとしません。そのため、一月余りしても犯人の名を報告できませんでした(主名不立)
劉猛は罪に坐して諫議大夫に左遷され、御史中丞段熲が代わりに司隸校尉になりました。
 
段熲は四方に人を送って追及させました。太学の游生(遊学している学生)で繋がれた者が千余人に上ります。
後漢書霊帝紀』はこの事件を「宦官が司隷校尉段熲を示唆して太学の諸生千余人を逮捕させた」と書いています。
 
曹節等は更に段熲を使って他の事を理由に劉猛を弾劾させました。段熲の上奏によって劉猛は左校で労役する刑に処されました(論輸左校)
 
以前、司隸校尉王寓が宦官の勢力に頼って、太常張奐に自分を推挙するように求めました(『後漢書皇甫張段列伝(巻六十五)』によると、王寓自身も宦官の出身です)
しかし張奐が王寓の要求を拒否したため、王寓は張奐を陥れ、党罪(党人の罪)を理由に禁錮に処しました。
張奐はかつて段熲と羌討伐に関して争ったことがあり、対立していました建寧元年168年参照)
段熲は司隸校尉になってから、張奐を駆逐して敦煌に帰らせ、殺害しようとしました(張奐は敦煌から弘農に戸籍を遷しました。桓帝永康元年167年参照)。しかし張奐が文書を送って段熲に命乞いしたため、禍から逃れることができました。
 
以前、魏郡の人李暠が司隸校尉になり、旧怨によって扶風の人蘇謙を殺しました。
蘇謙の子蘇不韋は父の死体を簡単に埋めるだけで正式な埋葬はせず(瘞而不葬)、姓名を変え、賓客と結んで仇に報いることにしました。
李暠が大司農になると、蘇不韋は廥(草料の倉庫)の中に隠れ、地を掘って李暠の寝室の傍まで至り、李暠の妾と小児を殺しました。
李暠は大いに懼れて板を地面に敷き詰め、一晩に九回居場所を変えました。
蘇不韋は李暠の父の冢(墓)を掘り、その頭を斬って市に掲げました。
李暠は蘇不韋を逮捕したくても捕まえられず、憤恚(憤懣怨恨)のため血を吐いて死にました。
後に蘇不韋は大赦に遇って家に帰り、正式に父を埋葬して葬礼を行いました。
張奐はかねてから蘇氏と仲が良く、段熲は李暠と仲が良かったため、段熲が敢えて蘇不韋を招いて司隸従事に任命しようとしました。蘇不韋は懼れて病と称し、出向こうとしません。
段熲は怒って従事張賢を派遣し、蘇不韋を家の中で殺させました。この時、段熲が鴆(毒)を張賢の父に与えてこう言いました「もし賢が不韋を得られなかったら、(張賢の父が)これを飲まなければならない(便可飲此)。」
張賢は蘇不韋を逮捕し、一門六十余人とともに全て誅殺しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
勃海劉悝桓帝の弟)が癭陶王に落とされた時桓帝延熹八年165年)中常侍王甫に復国を求め、謝礼として銭五千万を与えると約束しました。ところが、桓帝が遺詔(死ぬ直前の詔)によって劉悝の国を戻してから桓帝永康元年167年)、劉悝は王甫の功ではないと知ったため、謝礼の銭を贈ろうとしませんでした。
 
当時、中常侍鄭颯、中黄門董騰がしばしば劉悝と交流していました。そこで王甫は秘かに司察(督察)して段熲にこれを報告します。
 
冬十月、鄭颯を逮捕して北寺獄に送りました。
また、(王甫は)尚書廉忠に鄭颯等を誣告する上奏をさせました「鄭颯等は劉悝を迎えて擁立することを謀っています。大逆不道です」という内容です。
霊帝冀州刺史に詔を発して劉悝を逮捕・審問させました。劉悝を厳しく譴責して自殺に追い込みます。
妃妾十一人、子女七十人、伎女二十四人も皆、獄中で死に、傅相以下の官員も全て誅に伏しました。
王甫等十二人は皆、この功績によって列侯に封じられました。
 
後漢書霊帝紀』の記述は若干異なり、「冬十月、渤海劉悝が謀反を誣告された。丁亥、劉悝および妻子が皆自殺した」と書いています。『資治通鑑』は『後漢書章帝八王伝(巻五十五)』に従って「妃妾十一人、子女七十人、伎女二十四人が皆、獄中で死んだ」としています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
十一月、会稽の妖賊許生が句章で挙兵し、陽明皇帝を自称しました。部衆が万人を数えます。
資治通鑑』胡三省注によると、句章は会稽郡に属す県です。かつて越王句践の地が南の句無に至り、その後、呉を併合して大城を築きました。覇者としての功績を明らかにして子孫に示すため(章霸功以示子孫)、「句章」と呼ぶことにしました。
 
朝廷は揚州刺史臧旻、丹陽太守陳寅を派遣して討伐させました。
 
許生については『後漢書』や『三国志』にも記述があり、『資治通鑑』と若干異なります。以下、列記します。
まずは『後漢書霊帝紀』からです。
十一月、会稽の人許生が「越王」を自称して郡県を侵しました。
朝廷は楊州刺史(揚州刺史)臧旻、丹陽太守陳夤を派遣して討破しました。
『孝霊帝紀』の注によると、会稽の許昭が衆を集めて大将軍を自称し、父の許生を越王に立てて郡県を攻め破りました。
 
次は『後漢書虞傅蓋臧列伝(巻五十八)』からです。
熹平元年、会稽の妖賊許昭が句章で挙兵し、大将軍を自称しました。父の許生を越王に立てて城邑を攻め破り、衆が万人を数えます。
朝廷は臧旻を揚州刺史に任命しました。臧旻は丹陽太守陳夤を率いて許昭を撃ち、これを破ります。
しかし許昭は改めて屯結(集結駐屯)し、大いに人患になりました。
臧旻等は兵を進めて三年間連戦し、これを破って平定しました。許昭父子を捕えて数千級を斬首します。
臧旻は使匈奴中郎将に遷りました。
 
最後は『三国志呉書孫破虜討逆伝(巻四十六)』からです。
会稽の妖賊許昌が句章で挙兵しました。陽明皇帝を自称し、子の許韶と共に諸県を扇動して衆が万人を数えます。
孫堅が郡司馬として精勇を募召(募集)し、千余人を得ました。孫堅は)州郡と合流してこれを討破します。その年は熹平元年です(熹平元年は討伐を開始した年で、許昌等を破るのは熹平三年174年の事です。再述します)
 
まとめるとこうなります。
資治通鑑』では、許生は陽明皇帝。
後漢書霊帝紀』の本文と注では、許生は越王、子の許昭は大将軍。
後漢書虞傅蓋臧列伝』でも許生が越王、子の許昭が大将軍。
三国志孫破虜討逆伝』では、許昌が陽明皇帝、子の名は許韶。
恐らく『資治通鑑』は誤りで、許生、許昭(または「許昌」)、許韶の三代による挙兵であり、許生が越王を名乗り、許昭(または「許昌」)が大将軍を名乗った後に陽明皇帝を自称したようです。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
十二月、司徒許栩を罷免し、大鴻臚袁隗を司徒に任命しました。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』は熹平四年に書いていますが(本年は熹平元年です)、『資治通鑑』は范瞱の『後漢書(霊皇帝紀』に従っています。
 
[十一] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
鮮卑并州を侵しました。
 
[十二] 『後漢書霊帝紀』は「この年、甘陵王劉恢が死んだ」と書いています。
 
甘陵王は劉理が清河孝王劉慶の祭祀を継ぐために桓帝建和二年148年)に封じられました。諡号は威王です。
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉理は在位二十五年で死に(本年に当たります)、子の貞王劉定が継ぎました。『章帝八王伝』に「劉恢」という名は見られません。
中華書局『後漢書霊帝紀』の校勘記は劉恢と劉理を同一人物と判断しています。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
この年、南匈奴単于車児(伊陵尸逐就単于が死んで子の屠特若尸逐就単于が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代280 霊帝(十五) 師遷の上奏 173年