東漢時代296 霊帝(三十一) 板楯蛮 182~183年

今回は東漢霊帝光和五年と六年です。
 
東漢霊帝光和五年
壬戌 182
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月辛未(十四日)、天下に大赦しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
霊帝が公卿に詔を発し、謠言(政治を批判する歌謡)を根拠に、刺史・二千石で民の蠹害(危害)になっている者を検挙させました。
しかし太尉𢒰や司空張済は内官(宦官)に迎合して貨賂(賄賂)を受け取っていたため、宦者の子弟や賓客が貪汚穢濁(汚濁。素行が悪くて法を守らないこと)であっても全く罪を問えませんでした。逆に辺遠の小郡にいる清修で恵化(優れた実績と教化)がある者二十六人を偽って糾弾します。
 
ところが吏民が宮闕を訪ねて陳訴(陳情)しました。
司徒陳耽が上書しました「公卿が挙げたのは、およそ私党を庇う行為です(公卿所挙,率党其私)。これは鴟梟(ふくろう。悪鳥)を放って鸞鳳を囚禁するというものです(放鴟梟而囚鸞鳳)。」
霊帝は許𢒰と張済を譴責し、謠言に坐して召還された者を全て議郎に任命しました。
 
後漢書杜欒劉李劉謝列伝(巻五十七)』では陳耽が議郎曹操と共に上書しています。しかし胡三省は「陳耽は既に司徒なので、議郎と共に上言することはない」と解説しています。
資治通鑑』は「陳耽と曹操が共に上書した」という『杜欒劉李劉謝列伝』の記述を採用せず、陳耽だけの名を書いています。
尚、曹操による上書は『三国志魏書武帝紀』の注にも書かれており、そこでは曹操が単独で「三公の挙奏(検挙上奏)には、専ら貴戚を回避する意があります(三公所挙奏専回避貴戚之意)」と諫言しています。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月、大疫に襲われました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、司徒陳耽を罷免しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、旱害がありました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
太常袁隗を司徒に任命しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月庚申(初五日)、永楽宮署で火災がありました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、孛星(異星。彗星の一種)が太微に現れました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
板楯蛮が巴郡で寇乱(叛乱)しました。
東漢政府が連年討伐しましたが、打ち破ることができません。
そこで霊帝は大いに兵を徴発しようと欲し、益州計吏漢中の人程包に意見を求めました。
 
程包が答えて言いました「板楯の七姓(『資治通鑑』胡三省注によると、板楯七姓は羅、朴、督、鄂、度、夕、龔を指します。全て渠帥です)は秦の世から功を立てたので、その租賦を免除されました(復其租賦)。その人(板楯蛮の人々)は勇猛で戦を善くします。昔、永初中(恐らく安帝元初元年114年の出来事です。「永初」も安帝の年号ですが、「元初」の誤りです)に羌が漢川に入って郡県が破壊されましたが、板楯の救援を得たので、羌がほぼ全滅しました(死敗殆尽)(その後)羌人が(板楯蛮)を神兵と号して種輩(同族の者)に伝え語ったので、再び南行することがなくなったのです。桓帝建和二年(148)に至って羌がまた大入(大挙進入)しましたが、実に板楯のおかげで連勝してこれを破ることができました(連摧破之)。前車騎将軍馮緄が武陵を南征した時も、板楯に頼ってその功を成しました桓帝延熹五年162年に馮緄が武陵を討伐しました。但し当年の記述に「板楯蛮」の名はありません)。最近では益州郡で乱がありましたが、太守李顒も板楯によってこれを討ち、平定しました霊帝熹平五年176年に李顒が益州郡を平定しました。但し当年の記述に「板楯蛮」の名はありません)(板楯蛮の)忠功はこのようであり、本来、悪心はありません。
ところが、長吏郷亭(地方政府)が更賦(「更賦」は兵役の代わりに納める税ですが、ここでは恐らく賦税全般を指します)を至重にし(極めて重くし)、労役・虐待が奴虜よりもひどく(僕役箠楚過於奴虜)(彼等は生活が困難なため)妻を別の男に嫁がせて子を売る者もおり(亦有嫁妻売子)、あるいは自ら頸を切る者までいましたが(或乃至自剄割)、州郡に冤(冤罪。不当な扱い)を陳情しても牧守は彼等のために理(道理)を通そうとせず、闕庭(朝廷)は悠遠なので自ら報告することもできず、怨みを抱いて天に叫ぶだけで叩愬(訴えること)する場所がありませんでした(含怨呼天無所叩愬)。だから邑落が互いに集まって叛戾(背反)を為したのです。謀主がいて号を僭称し、不軌(叛逆。大逆)を図っているのではありません。今はただ明能(賢明で能力があること)な牧守を選ぶだけで自然に安集(安定)します。征伐を煩わせる必要はありません(征伐の必要はありません。原文「不煩征伐也」)。」
 
霊帝はこの言葉に従って曹謙を太守に任命し、詔を宣布して巴郡の板楯蛮を赦しました。
板楯蛮は皆すぐに曹謙を訪ねて投降しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
癸酉、繋囚(囚人)で罪()がまだ決まっていない者に命じて、縑(絹の一種)を納めて贖罪させました。
 
[十一] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月、阿亭道に四百尺の観(楼台)を建てました。
 
[十二] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、太尉𢒰を罷免し、太常楊賜を太尉にしました。
 
[十三] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
霊帝が上林苑で校猟(狩猟の一種)し、函谷関を通って広成苑を巡狩(巡視)しました(『孝霊帝紀』では「巡狩于広成苑(広成苑を巡狩した)」ですが、『資治通鑑』では「狩于広成苑(広成苑で狩りをした)」です。『孝霊帝紀』の「巡狩」も「巡視」ではなく「狩猟」の意味かもしれません)
 
十二月、霊帝が帰還して太学行幸しました。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
桓典を侍御史に任命しました。
桓典は桓焉の孫です。桓焉は順帝時代の太傅で、桓郁の子、桓栄の孫です(明帝永平二年59年参照)
 
桓典は宦官に畏れられました(『後漢書桓栄丁鴻列伝(巻三十七)』は「京師が畏れ憚った」と書いています)
桓典は常に驄馬(白と青の毛が混ざった馬)に乗っていたため、京師の人々がこう言いました「道を歩いたら立ち止まれ。驄馬の御史には出くわすな(行行且止,避驄馬御史)。」
 
 
 
東漢霊帝光和六年
癸亥 183
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
春正月、日南徼外(界外)の国が通訳を重ねて貢献しに来ました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
二月、豊や沛と同じように長陵県の賦税を免除しました(復長陵県比豊沛)
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月辛未(二十一日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏、大旱に襲われました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
何皇后の母に舞陽君の爵号を与えました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、金城で二十余里にわたって河水が溢れ出ました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
五原で山岸が崩れました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
始めて圃囿署(「圃」は菜地、「囿」は動物を養う園です。「圃囿」は皇帝の園林のようです)を置き、宦者を令に任命しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
冬、東海東莱琅邪で井戸の中の氷が厚さ一尺余になりました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』は本年の最期に「大有年(大豊作)」と書いています。しかし『資治通鑑』はこれを省略しており、胡三省注が「夏に大旱があったので、秋に穀物を実らせたとしても、『大有年』になるはずはない」と解説しています。
 
 
 
次回に続きます。