東漢時代296 霊帝(三十一) 板楯蛮 182~183年
壬戌 182年
しかし太尉・許𢒰や司空・張済は内官(宦官)に迎合して貨賂(賄賂)を受け取っていたため、宦者の子弟や賓客が貪汚・穢濁(汚濁。素行が悪くて法を守らないこと)であっても全く罪を問えませんでした。逆に辺遠の小郡にいる清修で恵化(優れた実績と教化)がある者二十六人を偽って糾弾します。
ところが吏民が宮闕を訪ねて陳訴(陳情)しました。
司徒・陳耽が上書しました「公卿が挙げたのは、およそ私党を庇う行為です(公卿所挙,率党其私)。これは鴟梟(ふくろう。悪鳥)を放って鸞鳳を囚禁するというものです(放鴟梟而囚鸞鳳)。」
二月、大疫に襲われました。
三月、司徒・陳耽を罷免しました。
夏四月、旱害がありました。
太常・袁隗を司徒に任命しました。
五月庚申(初五日)、永楽宮署で火災がありました。
秋七月、孛星(異星。彗星の一種)が太微に現れました。
板楯蛮が巴郡で寇乱(叛乱)しました。
東漢政府が連年討伐しましたが、打ち破ることができません。
程包が答えて言いました「板楯の七姓(『資治通鑑』胡三省注によると、板楯七姓は羅、朴、督、鄂、度、夕、龔を指します。全て渠帥です)は秦の世から功を立てたので、その租賦を免除されました(復其租賦)。その人(板楯蛮の人々)は勇猛で戦を善くします。昔、永初中(恐らく安帝元初元年・114年の出来事です。「永初」も安帝の年号ですが、「元初」の誤りです)に羌が漢川に入って郡県が破壊されましたが、板楯の救援を得たので、羌がほぼ全滅しました(死敗殆尽)。(その後)羌人が(板楯蛮)を神兵と号して種輩(同族の者)に伝え語ったので、再び南行することがなくなったのです。(桓帝)建和二年(148年)に至って羌がまた大入(大挙進入)しましたが、実に板楯のおかげで連勝してこれを破ることができました(連摧破之)。前車騎将軍・馮緄が武陵を南征した時も、板楯に頼ってその功を成しました(桓帝延熹五年・162年に馮緄が武陵を討伐しました。但し当年の記述に「板楯蛮」の名はありません)。最近では益州郡で乱がありましたが、太守・李顒も板楯によってこれを討ち、平定しました(霊帝熹平五年・176年に李顒が益州郡を平定しました。但し当年の記述に「板楯蛮」の名はありません)。(板楯蛮の)忠功はこのようであり、本来、悪心はありません。
ところが、長吏郷亭(地方政府)が更賦(「更賦」は兵役の代わりに納める税ですが、ここでは恐らく賦税全般を指します)を至重にし(極めて重くし)、労役・虐待が奴虜よりもひどく(僕役箠楚過於奴虜)、(彼等は生活が困難なため)妻を別の男に嫁がせて子を売る者もおり(亦有嫁妻売子)、あるいは自ら頸を切る者までいましたが(或乃至自剄割)、州郡に冤(冤罪。不当な扱い)を陳情しても牧守は彼等のために理(道理)を通そうとせず、闕庭(朝廷)は悠遠なので自ら報告することもできず、怨みを抱いて天に叫ぶだけで叩愬(訴えること)する場所がありませんでした(含怨呼天無所叩愬)。だから邑落が互いに集まって叛戾(背反)を為したのです。謀主がいて号を僭称し、不軌(叛逆。大逆)を図っているのではありません。今はただ明能(賢明で能力があること)な牧守を選ぶだけで自然に安集(安定)します。征伐を煩わせる必要はありません(征伐の必要はありません。原文「不煩征伐也」)。」
霊帝はこの言葉に従って曹謙を太守に任命し、詔を宣布して巴郡の板楯蛮を赦しました。
板楯蛮は皆すぐに曹謙を訪ねて投降しました。
癸酉、繋囚(囚人)で罪(刑)がまだ決まっていない者に命じて、縑(絹の一種)を納めて贖罪させました。
八月、阿亭道に四百尺の観(楼台)を建てました。
冬十月、太尉・許𢒰を罷免し、太常・楊賜を太尉にしました。
霊帝が上林苑で校猟(狩猟の一種)し、函谷関を通って広成苑を巡狩(巡視)しました(『孝霊帝紀』では「巡狩于広成苑(広成苑を巡狩した)」ですが、『資治通鑑』では「狩于広成苑(広成苑で狩りをした)」です。『孝霊帝紀』の「巡狩」も「巡視」ではなく「狩猟」の意味かもしれません)。
桓典を侍御史に任命しました。
桓典は桓焉の孫です。桓焉は順帝時代の太傅で、桓郁の子、桓栄の孫です(明帝永平二年・59年参照)。
桓典は常に驄馬(白と青の毛が混ざった馬)に乗っていたため、京師の人々がこう言いました「道を歩いたら立ち止まれ。驄馬の御史には出くわすな(行行且止,避驄馬御史)。」
癸亥 183年
春正月、日南徼外(界外)の国が通訳を重ねて貢献しに来ました。
二月、豊や沛と同じように長陵県の賦税を免除しました(復長陵県比豊沛)。
夏、大旱に襲われました。
何皇后の母に舞陽君の爵号を与えました。
秋、金城で二十余里にわたって河水が溢れ出ました。
五原で山岸が崩れました。
始めて圃囿署(「圃」は菜地、「囿」は動物を養う園です。「圃囿」は皇帝の園林のようです)を置き、宦者を令に任命しました。
冬、東海・東莱・琅邪で井戸の中の氷が厚さ一尺余になりました。
[十] 『後漢書・孝霊帝紀』は本年の最期に「大有年(大豊作)」と書いています。しかし『資治通鑑』はこれを省略しており、胡三省注が「夏に大旱があったので、秋に穀物を実らせたとしても、『大有年』になるはずはない」と解説しています。
次回に続きます。