東漢時代 曹操登場(上)
東漢時代299 霊帝(三十四) 長社の戦い 184年(3)
魏太祖武皇帝は沛国譙の人で、姓は曹、諱(実名)は操、字を孟徳といいます。漢の相国・曹参の後代です。
曹騰の後は養子の曹嵩が継ぎ、官が太尉に到りました。しかし曹嵩の生出の本末(出生の経緯、詳細)を明らかにすることはできません。
祖先は黄帝の出身で、高陽(顓頊)の世に当たって(顓頊の時代になって)、陸終の子・安が曹姓になりました(陸終は顓頊の子孫なので、「高陽の世」では時代が合いません。原文は「当高陽世,陸終之子曰安,是為曹姓」です。「高陽の後世に当たる陸終の子を安といい、これが曹姓になった」という意味かもしれません)。
周武王が殷(商)に勝ってから、先世(先人)の後代を存続させて曹俠(「曹挾」とも書きます)を邾に封じました。
春秋の世には、邾も盟会(諸侯の会盟)に参加しましたが、戦国に到って楚に滅ぼされます。
子孫は分流し(分かれて流亡し)、ある者は沛に家を建てました。
漢高祖が起つと、曹参が功績によって平陽侯に封じられ、爵土を世襲しました。その後、断絶してもまた継承を回復され(絶而復紹)、今に至るまで容城で国を継承してきました(原文「至今適嗣国於容城」。「適嗣」は「嫡長子」ですが、ここでは「継承」の意味だと思います)。
曹騰の父は曹節、字は元偉といい、かねてから仁厚によって称えられていました。
『三国志集解』によると、曹節は「曹萌」と書かれることもあります。後に曹操が娘の名を「節」にします。曹操が曹騰の父の名を娘の名に使うはずはないので、「曹萌」が誤って「曹節」と書かれるようになったのではないかともいわれています。
裴松之の注に戻ります。
後にいなくなった豕が自ら隣人の家に帰りました。豕の主人は大いに慚愧して自分の物とした豕を曹節に送り返し、併せて謝罪しました。
曹節は笑ってそれを受け取ります。
この件があったため、郷党が貴歎(尊敬・嘆息)しました。
曹騰は若い頃、黄門従官に任命されました。
安帝永寧元年(120年)、鄧太后が黄門令に詔を発し、中黄門従官の中から年少で温謹(温厚謹直)な者を選ばせて、皇太子の書に配しました(皇太子の学友にしました。皇太子は劉保で、後の順帝です)。曹騰がこの選に応じます(曹騰が皇太子の学友に選ばれます)。
太子は特に曹騰を親愛し、飲食や賞賜を衆人と異ならせました。
曹騰は賢能な者を薦めて仕官させることを好み(好進達賢能)、毀傷(誹謗中傷)されることがありませんでした。
蜀郡太守が計吏を通して曹騰に敬意を伝えようとしました。しかし益州刺史・种暠が函谷関で太守の牋(書信)を捜し出し、太守の罪を上書するとともに、「曹騰が内臣でありながら外交(宮外の臣と結ぶこと)するのは不当な行為である」と上奏して、免官のうえ罪を裁くように請いました。
しかし帝(恐らく順帝です)は「牋は外から来たのであり、曹騰の書は出ていない。彼の罪ではない」と言って种暠の上奏を採用しませんでした。
曹騰はこの一件を意に介すことなく、常に种暠を称えて感嘆し、「种暠は陛下に仕える節(事上之節)を得ている」とみなしました。
曹騰が事を行う様子は全てこのようでした。
桓帝が即位すると、曹騰は先帝の旧臣で忠孝が顕著であるという理由で費亭侯に封じ、位を加えて特進にしました。
魏明帝太和三年(239年)、明帝が曹騰を追尊して高皇帝にしました。
曹騰の子・曹嵩は字を巨高といいます。質性(性格)が敦慎(敦厚慎重)で、どこにいても忠孝を守りました。
魏文帝黄初元年(220年)、文帝が曹嵩を追尊して太皇帝にしました。
次回に続きます。