東漢時代 曹操登場(下)

三国志魏書武帝紀』の本文と裴松之の注から、黄巾事件以前の曹操について紹介しています。

東漢時代 曹操登場(上)


武帝紀』本文からです。

曹操は若い頃から機警(機智鋭敏)で、権数(権謀術数)がありましたが、任侠放蕩で行業(徳行学業。または正業)を治めようとしなかったため、世人は曹操を特別だとは思っていませんでした。しかし梁国の人橋玄南陽の人何顒だけは異なる見方をしていました。

橋玄曹操にこう言いました「天下はもうすぐ乱れる。命世の才(天命に順じて世に現れた人材)でなければ救うことができない(天下将乱,非命世之才,不能済也)。これを安定させることができるのは、君にかかっているのではないか(天下を安定させるのは恐らく君だろう。原文「能安之者,其在君乎」)。」
曹操は二十歳で孝廉に挙げられて郎になり、洛陽(雒陽)北部尉を勤めてから頓丘令に遷りました。その後、朝廷に召されて議郎に任命されます。
 
以下、裴松之の注からです。
曹操は若い頃、鷹を飛ばしたり狗(犬)を走らせたりすることが好きで、游蕩に度がありませんでした。そのため、叔父がこの事をしばしば曹嵩に話しました。曹操はこれを憂慮します。
後に曹操が路上で叔父に遇いました。すると曹操はわざと容貌をくずして口をゆがめました(苦痛そうな顔をしました。原文「陽敗面喎口」)
叔父が怪しんで(不思議に思って)理由を問うと、曹操はこう答えました「突然、悪風に中ったのです(突然、中風になりました。原文「卒中悪風」)。」
叔父がこれを曹嵩に告げると、曹嵩は驚愕して曹操を呼びました。しかし曹操の口貌(口や容貌)は以前と変わりがありません。
曹嵩が曹操に問いました「叔父は汝が中風だと言ったが、既に治ったのか(原文「已差乎」。「差」は「瘥」と同字です)?」

曹操が言いました「初めから中風にはなっていません(初不中風)。ただ叔父の愛を失っているので、中傷されたのです(原文「故見罔耳」。「罔」は「騙す、中傷する」です。「叔父は父曹嵩を騙して、私が正常ではないと中傷した」という意味です)。」

この件があってから曹嵩は疑いを抱き、叔父が何かを告げても二度と信用しなくなりました。
こうして、曹操はますます好き勝手に振る舞えるようになりました。
 
太尉橋玄は人を知ることができるとして、世に名声がありました。その橋玄曹操を見て尋常ではないと思い、こう言いました「私が見てきた天下の名士は多いが、君のような者はいなかった。君は善く自持(自制すること。または自分を守ること)しなさい。私は老いた。妻子を託すことを請う(吾老矣。願以妻子為託)。」
橋玄の発言によって曹操の名声がますます重くなりました。 
 

橋玄の字は公祖といいます。厳明で才略があり、人を評価することに長けていました(原文「長於人物」。この「人物」は人の品格優劣を品評するという意味です)

橋玄は中外の官位を歴任し、剛断な性格によって称賛され、下士に対しても謙倹(謙遜で自分を律すること)で、王爵によって(相手の身分が高いために)個人的に親しくすることはありませんでした(不以王爵私親)
霊帝光和年間に太尉になりましたが、久しい病のため策書によって罷免され、太中大夫に任命されました霊帝光和元年、光和二年178年、179年)参照)
橋玄が死んだ時、家が産業に乏しかったため(家業・財産がなかったため。原文「貧乏産業」)、柩を殯すこともできませんでした(「殯」は棺を埋葬する前に一定期間置くこと、または棺を墓地まで運ぶことですが、広く葬儀を指すこともあります。ここでは、橋玄が清廉で家に財産がなかったため、葬礼を行うこともできなかったという意味です)
当世の人々は橋玄を名臣と称えました。
後漢書李陳龐陳橋列伝(巻五十一)』によると、橋玄霊帝光和六年183年)に死に、七十五歳でした。
 
かつて橋玄曹操に「君はまだ名がない。許子将と交わるべきだ」と言いました。

本編に書きましたが、子将は許訓の従子(甥)許劭の字です。許訓は霊帝時代の三公です建寧二年169年参照)

曹操が許子将を訪ね、許子将がこれを受け入れたため、曹操の名が知られるようになりました。
 
曹操と許子将に関しては、他の説もあります(『資治通鑑』は以下の説を採用しています)
曹操が許子将に「私はどのような人だ(我何如人)」と問いましたが、子将は答えませんでした。しかし曹操は頑なに問うので、子将はこう答えました「子(汝)は治世の能臣、乱世の姦雄だ(子治世之能臣,乱世之姦雄)。」
曹操は大笑しました。
 

曹操は以前、秘かに中常侍張讓の部屋に進入しました。しかし張讓がこれに気づきます。すると曹操は庭で手戟を舞わせ、垣(壁。垣根)を越えて出て行きました。

曹操の才武は人を超絶していたため、誰も害すことができませんでした。
また、曹操は広く群書を読み、特に兵法を好みました。諸家の兵法を抄集(集めて重要な個所を記録すること)して『接要』と名づけ、『孫武』十三篇にも注釈を施します。これらは全て世に伝えられました。
 
曹操が初めて尉廨(雒陽北部尉の官署)に入った時、(官署の)四門を繕治(修繕、修築)しました。
五色棒を作って(官署の)門の左右に各十余本を掛け、禁令を犯した者がいたら豪強も避けずに皆、棒殺します。

数カ月後、霊帝が愛幸(寵愛)している小黄門蹇碩の叔父が夜行したため、すぐに殺しました(「夜行」は夜間の外出、行動です。当時は夜間の行動が規制されていたようです)

京師の人々は行動を引き締めるようになり(斂迹)、敢えて禁令を犯す者がいなくなりました。
近習や寵臣は皆、曹操を憎んで嫌いましたが、傷つけることもできません。そこで共に曹操を称賛・推薦しました。そのため、曹操は頓丘令に遷されました。
 

後に曹操の従妹の夫彊侯宋奇が誅殺されたため、曹操も従坐連座して免官となりました。

彊侯宋奇がどういう人物かははっきりしません。霊帝光和元年178年)に宋皇后が廃されて憂死し、宋皇后の父不其郷侯宋酆や兄弟も誅殺されています。『三国志集解』は宋奇を「宋皇后の兄弟行(兄弟、または兄弟と同じ世代の親族)」としています。

 
曹操は古学に明るかったため(能明古学)、再び朝廷に召されて議郎に任命されました。

以前、大将軍竇武と太傅陳蕃が閹官(宦官)の誅滅を謀って逆に害されました。

そこで曹操は「陳武等は正直でありながら害に陥ることになり、姦邪が朝(朝廷)を満たして善人が壅塞されています(善人の道が塞がれています)」と上書しました。その言は甚だ激切です(甚切)。しかし霊帝は諫言を用いることができませんでした。
 

後に霊帝詔書を発して三府(三公)に命じ、州県の政理(政治)で效(功績)がない者を検挙上奏させ、民に謠言(政治を批判する歌謡)を作られている者(民の謠言の対象になっている官員)は罷免することにしました。

ところが三公は邪に傾いており、皆、世に用いられたいと望んで(出世を望んで)貨賂(賄賂)を横行させていたため、強者は(民から)怨まれていても検挙上奏されず、弱者は道を守っていても多くが誹謗されて罪に陥れられました。

曹操はこの状況を憎みました。

その年、災異が起きたので霊帝が広く政治の得失を問いました。そこで曹操は再び上書して厳しく諫めました(切諫)。「三公が挙奏した内容には専ら貴戚を回避する意図がある(三公所挙奏専回避貴戚之意)」と説きます霊帝光和五年182年参照)

上奏文が提出されると、天子が感寤(感悟)し、三府に示して譴責しました。
謠言によって召還された者(道を守っていたのに誹謗された者)は全て議郎になります。
しかしこの後は政教が日に日に乱れ、豪猾(強豪狡猾な者)が更に盛んになり、多くが摧毀されました(「摧毀」は「破壊」「毀損」ですが、ここでは忠臣が陥れられたという意味だと思います)
曹操は匡正(矯正)することができないと知り、二度と献言しなくなりました。
 
武帝紀』本文からです。
霊帝光和末年184年)、黄巾が挙兵すると、曹操は騎都尉に任命されて潁川賊を討伐しました(本編で述べました)