東漢時代300 霊帝(三十五) 盧植失脚 184年(4)
張曼成が宛下に駐軍して百余日が経ちました。
交趾の土地は珍貨(宝物)が多かったため、前後の刺史の多くに清行(清廉な行動)がなく、財産を記録する計簿が充たされてから交代を求めました(財計盈給輒求遷代)。
賈琮は交趾州部に至るとまず反状(叛乱の原因、状況)を訊ねました。
人々は皆、こう言いました「賦斂(税収)が過重なため、百姓で空単(困窮、貧困)ではない者はいません。しかし京師は遙遠なので、冤(不当な扱い)を告げる場所もなく、民は生活を維持できないので(民不聊生)、集まって盗賊になったのです。」
賈琮は書を発して吏民に告示し、人々に自分の資業(産業。家業)を安定させ、荒散(災難を避けて逃亡離散すること)した者を招撫し、傜役を免除しました(蠲復傜役)。
特に害が大きかった渠帥だけを誅斬します。
また、良吏を選んで試しに諸県を守らせました(原文「試守諸県」。代理の県長・県令を置きました)。
その結果、一年の間に蕩定(平定)され、百姓の生活が安定します。
巷路の人々が賈琮の業績を称えてこう歌いました「賈父が来るのが晩かったから、我々を先に背反させた。今、清平を見て、吏も敢えて飯を要求しなくなった(賈父来晚,使我先反。今見清平,吏不敢飯)。」
最後の「吏不敢飯」を『資治通鑑』胡三省注は「官吏が敢えて民の家を訪ねて食事をしないようになった」と解説しています。
『資治通鑑』胡三省注によると、陽翟県は潁川郡に、西華県は汝南郡に属します。三郡は潁川、汝南、陳国を指します。
『資治通鑑』胡三省注によると、鎮賊中郎将は黄巾余賊の鎮安を欲して置かれた官です。
張角等は広宗に走って守りを固めます。
『資治通鑑』胡三省注によると、広宗県は鉅鹿郡に属します。
洛陽(雒陽)の女子が子を生みました。二つの頭が一つの体を共にしていました(両頭共身)。
『孝霊帝紀』の注によると、上西門外の女子が子供を生みました。頭が二つあり、肩は別れていますが、胸から下がつながっています(両頭異肩共胸)。(親は)これを不祥とみなし、地に落として棄てました(墮地棄之)。この後、政権が私門(重臣・大臣)に移り、上下の区別がなくなりました。これが「二頭の象」です。
秋七月、張脩が衆を集めて反し、郡県を侵しました。
当時の人々はこれを「米賊」と呼びました。
張魯は字を公祺といい、沛国豊の人です。
祖父・張陵は蜀に客居し、鵠鳴山の中で道を学び、道書を作って百姓を惑わしました。張陵に従って道を受けた者(教授された者)は五斗の米を納めたため、世の人々は「米賊」と号しました。
張陵の死後、子の張衡がその道を行い、張衡の死後は張魯が受け継ぎました。
しかし『三国志集解』はこう解説しています「張修(張脩)と張衡の二人は共に五斗米道を為したが、張衡は深山に匿跡し(姿を隠し)、兵に頼って乱を為すという事がなかったので、反逆した妖賊(張脩)とは自ずから異なる。」「漢中の張修は劉焉の別部司馬であり、また、五斗米道を習った。『後漢書・霊帝紀』が書いている巴郡の妖巫がこれである。(この張修が)張魯の父であるはずはなく、裴松之の説は誤りだ。」「張魯が張修を襲って殺したので、(張修は)その父ではない。」
河南尹・徐灌が獄に下されて死にました。
九月、安平王・劉続が不道の罪に坐して誅殺されました。安平国が除かれます。
これ以前に劉続は黄巾に捕えられましたが、国人が金銭を贈ったため、還ることができました。
その時、朝廷が安平国の復国について議論しました。
議郎・李燮がこう言いました「劉続は藩国を守りながらその能力がなく(守藩不称)、聖朝を損辱(名誉を損なって辱めること)させました。復国するべきではありません。」
朝廷(皇帝)はこの意見に従わず、逆に李燮が宗室を誹謗した罪に坐して、左校で労役に従事する刑に処されました(輸作左校)。
しかし一年も経たずに劉続が不道の罪に坐して誅されたため、李燮は再び議郎に任命されました。
京師の人々はこう言いました「(李燮の)父は帝を立てようとせず、子は王を立てようとしない(父不肯立帝,子不肯立王)。」
次回に続きます。