東漢時代301 霊帝(三十六) 黄巾の失敗 184年(5)
翌日、皇甫嵩は営門を閉じて士卒を休ませ、状況の変化を観察しました。
やがて、黄巾の兵達に緩みが生まれているのを知り(知賊意稍懈)、夜に紛れて兵を整えます。
翌早朝、鶏が鳴くと、漢軍が黄巾の陣に向かって駆けました。戦いは晡時(夕方。午後三時から五時)に及び、黄巾を大破します。
これ以前に張角は病死していました。
漢軍は棺を破壊して死体を曝し(『資治通鑑』の原文は「剖棺戮屍」、『孝霊帝紀』の原文は「乃戮其屍」です。『孝霊帝紀』の注が「棺を発して(掘り起こして)頭を断った(斬った)」と解説しています)、首を京師に送りました(『孝霊帝紀』の注は「(頭を)馬市に送った」と書いています)。
『資治通鑑』胡三省注によると、下曲陽は鉅鹿郡に属す県です。常山に上曲陽があります。
『後漢書・孝霊帝紀』では、皇甫嵩は十月に左車騎将軍になってから、十一月に下曲陽で黄巾を破って張宝を斬っています。『資治通鑑』は『後漢書・皇甫嵩朱儁列伝(巻七十一)』に従っており、張宝を斬ってから左車騎将軍になっています。
皇甫嵩は士卒に対して温卹(慈しみがあること。愛情があること)で、行軍中に頓止(停留、休憩)する時は必ず営幔を造り終えてから舍に入って休み、軍士が食事を終えてから、やっと自分の食事をしました(軍士皆食爾乃嘗飯)。そのおかげで向かう所で功を立てることができました。
北地の先零羌と枹罕、河関の群盗が叛しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、河関と枹罕は隴西郡に属す県です。
先零羌等は共に湟中の義従胡・北宮伯玉(義従胡は漢に帰順した異民族です。『資治通鑑』胡三省注によると、北宮は住居を元にした氏です。『左伝』には衛の大夫・北宮文子がおり、『孟子』には北宮黝がいます)と李文侯を将軍に立て、護羌校尉・泠徵(泠が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、周に泠州鳩がいました。尚、『資治通鑑』では「泠徵」ですが、『孝霊帝紀』では「伶徵」です)を殺しました。
群党は金城太守・陳懿を殺し、州郡を攻めて焼きます。
以前、武威太守(姓名はわかりません)が権貴にたよって貪暴を恣にしていました。
蓋勳は以前から蘇正和と仇があったため、ある人が蓋勳に対してこの機に報復するように勧めました。
しかし蓋勳はこう言いました「(刺史が)事を謀った機会に良人を殺すのは忠ではない(謀事殺良非忠也)。人の危険に乗じるのは仁ではない(乗人之危非仁也)。」
蓋勳は梁鵠を諫めてこう言いました「鷹隼を繋いで飼うのは獲物を取ることを欲するからです(夫紲食鷹隼欲其鷙也)。(鷹隼が)獲物を取ったのに煮殺してしまったら、今後、何を用いるのでしょう(鷙而亨之将何用哉)。」
梁鵠は考えを改めました。
蘇正和が蓋勳を訪ねて謝辞を述べようとしました。
しかし蓋勳は蘇正和に会わず、「私は梁使君(刺史)のために謀ったのだ。蘇正和のためではない」と言い、以前のように怨みを抱いて対立しました(怨之如初)。
左昌は逆に怒って蓋勳と従事・辛曾、孔常を派遣し、賊(辺境の少数民族や叛乱した民衆)を防ぐために別れて阿陽(『資治通鑑』胡三省注によると、漢陽郡に属す県です)に駐屯させました。軍事を利用して罪に陥れるつもりです。しかし蓋勳はしばしば戦功を立てました。
北宮伯玉が金城を攻めた時、蓋勳が左昌に進言して金城を救援するように勧めましたが、左昌は従いませんでした。
金城太守・陳懿が死に、辺章等が進軍して冀で左昌を包囲すると、左昌は蓋勳等を招いて自分を助けさせようとました。しかし辛曾等は躊躇して赴こうとしません。
すると蓋勳が怒って言いました「昔、荘賈が時間に遅れたので、穰苴が剣を奮った(原文「荘賈後期穰苴奮剣」。春秋時代・斉の故事です。監軍の荘賈が集合の時間に遅れたため、司馬穰苴に処刑されました)。今の従事はどうして古の監軍より重いのか(古の監軍でも期限に遅れたら斬られたのだから、今の従事ならなおさらだ)。」
辛曾等は懼れて蓋勳に従いました。
蓋勳は冀に着くと背叛の罪によって辺章等を譴責しました。
辺章等は皆、「左使君がもし早く君の言に従い、兵を用いて我々に臨んでいたら、自ら改められたかもしれない(庶可自改)。しかし今は罪が既に重くなったので、降ることはできない」と言い、包囲を解いて去りました。
叛羌が畜官(畜牧場)で校尉・夏育を包囲しました。
蓋勳と州郡が兵を合わせて夏育を救い、狐槃に到りましたが、羌に敗れます。
蓋勳の余衆は百人にも及ばず、その身にも三カ所の傷を負いました。蓋勳は久しく坐ったまま動かず(堅坐不動)、木表(木の標札)を指さして「私の屍をここに収めよ(尸我於此)」と言いました。
句就種羌(羌の句就種族)の滇吾が武器を持って衆兵を制止し、こう言いました「蓋長史は賢人だ。汝曹(汝等)がこれを殺したら天に背くことになる(殺之者為負天)。」
すると蓋勳は仰ぎ見て「死反虜!汝に何が分かるか!速くわしを殺しに来い(汝何知,促来殺我)!」と罵りました。
羌人達は驚いて互いに顔を見合わせます。
滇吾が馬を下りて蓋勳に与えようとしましたが、蓋勳は乗ろうとせず、最後は羌人に捕えられました。
しかし羌人はその義勇に心服したため、敢えて害を加えず、漢陽に送り還しました。
次回に続きます。