東漢時代301 霊帝(三十六) 黄巾の失敗 184年(5)

今回も東漢霊帝中平元年の続きです。
 
[十九] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、皇甫嵩張角の弟張梁と広宗で戦いましたが、張梁の衆が精勇だったため、皇甫嵩は勝てませんでした。
 
翌日、皇甫嵩は営門を閉じて士卒を休ませ、状況の変化を観察しました。
やがて、黄巾の兵達に緩みが生まれているのを知り(知賊意稍懈)、夜に紛れて兵を整えます。
 
翌早朝、鶏が鳴くと、漢軍が黄巾の陣に向かって駆けました。戦いは晡時(夕方。午後三時から五時)に及び、黄巾を大破します。
漢軍は張梁を斬り(『資治通鑑』は「斬梁」としていますが、『孝霊帝紀』では「獲張角弟梁」です。恐らくこの「獲」は「斬」の意味です)、三万級の首を獲ました。河に逃げて死んだ黄巾も約五万人います。
 
これ以前に張角は病死していました。
漢軍は棺を破壊して死体を曝し(『資治通鑑』の原文は「剖棺戮屍」、『孝霊帝紀』の原文は「乃戮其屍」です。『孝霊帝紀』の注が「棺を発して(掘り起こして)頭を断った(斬った)」と解説しています)、首を京師に送りました(『孝霊帝紀』の注は「(頭を)馬市に送った」と書いています)
 
十一月、更に皇甫嵩が下曲陽で張角の弟張宝を攻め、これを斬りました。黄巾の十余万人を斬獲します。
資治通鑑』胡三省注によると、下曲陽は鉅鹿郡に属す県です。常山に上曲陽があります。
 
朝廷は皇甫嵩を左車騎将軍冀州(「領」は兼任の意味です)に任命し、槐里侯に封じました。
 
後漢書霊帝紀』では、皇甫嵩は十月に左車騎将軍になってから、十一月に下曲陽で黄巾を破って張宝を斬っています。『資治通鑑』は『後漢書皇甫嵩朱儁列伝(巻七十一)』に従っており、張宝を斬ってから左車騎将軍になっています。
 
皇甫嵩は士卒に対して温卹(慈しみがあること。愛情があること)で、行軍中に頓止(停留、休憩)する時は必ず営幔を造り終えてから舍に入って休み、軍士が食事を終えてから、やっと自分の食事をしました(軍士皆食爾乃嘗飯)。そのおかげで向かう所で功を立てることができました。
 
[二十] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
北地の先零羌と枹罕、河関の群盗が叛しました。
資治通鑑』胡三省注によると、河関と枹罕は隴西郡に属す県です。
 
先零羌等は共に湟中の義従胡北宮伯玉(義従胡は漢に帰順した異民族です。『資治通鑑』胡三省注によると、北宮は住居を元にした氏です。『左伝』には衛の大夫北宮文子がおり、『孟子』には北宮黝がいます)と李文侯を将軍に立て、護羌校尉泠徵(泠が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、周に泠州鳩がいました。尚、『資治通鑑』では「泠徵」ですが、『孝霊帝紀』では「伶徵」です)を殺しました。
 
金城の人辺章と韓遂はかねてから西州で名が知られていたため、群党(北宮伯玉等)が二人を誘って脅し、軍帥にして軍政を専任させました。
群党は金城太守陳懿を殺し、州郡を攻めて焼きます。
 
以前、武威太守(姓名はわかりません)が権貴にたよって貪暴を恣にしていました。
涼州従事武都の人蘇正和がその罪を調査して検挙しようとしましたが(案致其罪)涼州刺史梁鵠が権貴を懼れ、逆に蘇正和を殺して負(負担、責任)から免れようとしました。
梁鵠はまず漢陽長史(『資治通鑑』胡三省注によると、郡太守には丞が一人おり、辺境を守る郡は丞を長史といいました)敦煌の人蓋勳を訪ねて意見を求めます。
蓋勳は以前から蘇正和と仇があったため、ある人が蓋勳に対してこの機に報復するように勧めました。
しかし蓋勳はこう言いました「(刺史が)事を謀った機会に良人を殺すのは忠ではない(謀事殺良非忠也)。人の危険に乗じるのは仁ではない(乗人之危非仁也)。」
蓋勳は梁鵠を諫めてこう言いました「鷹隼を繋いで飼うのは獲物を取ることを欲するからです(夫紲食鷹隼欲其鷙也)(鷹隼が)獲物を取ったのに煮殺してしまったら、今後、何を用いるのでしょう(鷙而亨之将何用哉)。」
梁鵠は考えを改めました。
 
蘇正和が蓋勳を訪ねて謝辞を述べようとしました。
しかし蓋勳は蘇正和に会わず、「私は梁使君(刺史)のために謀ったのだ。蘇正和のためではない」と言い、以前のように怨みを抱いて対立しました(怨之如初)
 
後任の涼州刺史左昌が軍穀数万を盗んだため、蓋勳が諫言しました。
左昌は逆に怒って蓋勳と従事辛曾、孔常を派遣し、賊(辺境の少数民族や叛乱した民衆)を防ぐために別れて阿陽(『資治通鑑』胡三省注によると、漢陽郡に属す県です)に駐屯させました。軍事を利用して罪に陥れるつもりです。しかし蓋勳はしばしば戦功を立てました。
北宮伯玉が金城を攻めた時、蓋勳が左昌に進言して金城を救援するように勧めましたが、左昌は従いませんでした。
 
金城太守陳懿が死に、辺章等が進軍して冀で左昌を包囲すると、左昌は蓋勳等を招いて自分を助けさせようとました。しかし辛曾等は躊躇して赴こうとしません。
すると蓋勳が怒って言いました「昔、荘賈が時間に遅れたので、穰苴が剣を奮った(原文「荘賈後期穰苴奮剣」。春秋時代斉の故事です。監軍の荘賈が集合の時間に遅れたため、司馬穰苴に処刑されました)。今の従事はどうして古の監軍より重いのか(古の監軍でも期限に遅れたら斬られたのだから、今の従事ならなおさらだ)。」
辛曾等は懼れて蓋勳に従いました。
 
蓋勳は冀に着くと背叛の罪によって辺章等を譴責しました。
辺章等は皆、「左使君がもし早く君の言に従い、兵を用いて我々に臨んでいたら、自ら改められたかもしれない(庶可自改)。しかし今は罪が既に重くなったので、降ることはできない」と言い、包囲を解いて去りました。
 
叛羌が畜官(畜牧場)で校尉夏育を包囲しました。
蓋勳と州郡が兵を合わせて夏育を救い、狐槃に到りましたが、羌に敗れます。
蓋勳の余衆は百人にも及ばず、その身にも三カ所の傷を負いました。蓋勳は久しく坐ったまま動かず(堅坐不動)、木表(木の標札)を指さして「私の屍をここに収めよ(尸我於此)」と言いました。
 
句就種羌(羌の句就種族)の滇吾が武器を持って衆兵を制止し、こう言いました「蓋長史は賢人だ。汝曹(汝等)がこれを殺したら天に背くことになる(殺之者為負天)。」
すると蓋勳は仰ぎ見て「死反虜!汝に何が分かるか!速くわしを殺しに来い(汝何知,促来殺我)!」と罵りました。
羌人達は驚いて互いに顔を見合わせます。
滇吾が馬を下りて蓋勳に与えようとしましたが、蓋勳は乗ろうとせず、最後は羌人に捕えられました。
しかし羌人はその義勇に心服したため、敢えて害を加えず、漢陽に送り還しました。
後に涼州刺史楊雍が上書して蓋勳を推薦し、漢陽太守を兼任させました(領漢陽太守)
 
 
 
次回に続きます。