東漢時代302 霊帝(三十七) 王允 184年(6)

今回で東漢霊帝中平元年が終わります。
 
[二十一] 『資治通鑑』からです。
張曼成の余党が改めて趙弘を帥に立てました。その衆が再び盛んになり、十余万に拡大して宛城を拠点にします。
 
朱儁荊州刺史徐璆等と兵を合わせて包囲しましたが、六月から八月になっても攻略できませんでした。
そこで有司(官員)朱儁を召還するように上奏しました。
これに対して司空張温が上書して言いました「昔、秦は白起を用い、燕は楽毅を用いましたが、どちらも長年を経歴してやっと敵に勝つことができました(皆曠年歴載乃能尅敵)朱儁は潁川を討って既に效(成果)があり、師()を率いて南を目指して方略が既に設けられています(引師南指方略已設)。軍に臨んで(出征して)将を換えるのは兵家が忌む(嫌う)ことです。日月を貸して成功を責(責務)とさせるべきです(時間を与えて成功させるべきです。原文「宜假日月責其成功」)。」
霊帝は呼び戻すのを止めました。
 
やがて朱儁が趙弘を撃って斬りました。
 
賊帥韓忠がまた宛を占拠して朱儁に対抗しました。
朱儁が戦鼓を鳴らして西南を攻めたため、賊の兵衆は全て西南に赴きます。そこで朱儁は自ら精卒を指揮し、東北を襲いました。城壁に登って進入します。
韓忠は退いて小城(宛城との位置関係が分かりません)を守り、懼れ慌てて投降を乞いました。
諸将が皆、投降を受け入れようと欲しましたが、朱儁はこう言いました「兵とは元々形が同じでも勢が異なることがあるものだ(戦とは、状況が同じでも趨勢が異なることがあるものだ。原文「兵固有形同而勢異者」)。昔、秦項の際(秦と項羽の時代)は民に定主がなかったので、帰順した者を賞すことで投降するように勧めたのである(故賞附以勧来耳)。しかし今は海内が一統になり、ただ黄巾だけが造逆(造反)している。投降した者を受け入れても善を勧めることはできないが、これを討てば悪を懲らしめるに足りる(納降無以勧善,討之足以懲悪)。今もしこれを受け入れたら、更に逆意を開き、賊は利があれば進んで戦い、鈍ったら投降を乞うようになる。敵を自由にさせて寇(賊)を増長させるのは良計ではない(縦敵長寇非良計也)。」
 
朱儁は急攻しましたが、連戦しても勝てませんでした。
 
朱儁が土山に登って韓忠の陣を望み、顧みて司馬張超に言いました「状況が分かった(吾知之矣)。賊は今、外の包囲が堅固で内営が逼迫しており(外囲周固,内営逼急)、投降を乞うても受け入れられず、出ようと欲しても出られないので、死戦しているのだ。万人でも一心になったら当たれないのに(敵対できないのに)、十万もいたらなおさらだ。包囲を撤去し、兵を合わせて城に入った方がいい(原文「不如徹囲,幷兵入城」。小城の包囲を解いて兵を宛城に入れるという意味だと思います)。韓忠は包囲が解かれるのを見たら必ず自ら(城を)出る(勢必自出)。自ら出たら意が散じる(心が一つではなくなる)。これが(敵を)破る道だ。」
朱儁が包囲を解くと、果たして趙忠が出陣しました。
朱儁はこれを機に攻撃し、大破して一万余級を斬首しました。
 
南陽太守秦頡が韓忠を殺しました。
しかし余衆がまた孫夏を奉じて帥に立て、宛に戻って駐屯しました。
後漢書皇甫嵩朱儁列伝(巻七十一)』によると、大敗した韓忠等は朱儁に降りましたが、秦頡が韓忠に対して怨みを積もらせていたため、殺してしまいました。余衆は懼れて不安になり、再び孫夏を帥に立てて、宛中に還って駐屯しました。
 
資治通鑑』に戻ります。
朱儁が宛を急攻し、司馬孫堅が衆を率いて真っ先に城壁に登りました。
癸巳(二十二日)、宛城が陥落して孫夏が逃走します。
朱儁は西鄂精山まで追撃して再びこれを破り、一万余級を斬りました。
こうして黄巾が破散(破滅四散)します。
他の州郡でも黄巾が誅殺され、一郡で数千人に上りました。
 
後漢書皇甫嵩朱儁列伝』『資治通鑑』とも、「孫夏は逃走した(孫夏走)」としか書いていませんが、『後漢書霊帝紀』は「癸巳(二十二日)朱儁が宛城を攻略し、黄巾の別帥孫夏を斬った」と書いています。
孫堅に関しては、『三国志呉書一孫破虜討逆伝』を元に、翌年の辺章韓遂討伐と合わせて別の場所で紹介します。

東漢時代 孫堅の出征


[二十二] 『後漢書霊帝紀』からです。
霊帝が詔を発して太官の珍羞(美食)を減らし、御食(皇帝の食事)の肉は一種類だけにしました(御食一肉)
また、厩馬で郊祭に使うもの以外は全て軍用として供出しました。
 
[二十三] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月己巳(二十九日)、天下に大赦して光和七年から中平元年に改元しました。
 
[二十四] 『資治通鑑』からです。
豫州刺史太原の人王允が黄巾を破りました。その際、張譲の賓客が黄巾と交流していた書信を得たため、朝廷に提出しました。
霊帝が怒って張譲を譴責しました。張譲は叩頭して謝罪します。
結局、霊帝張譲の罪を裁けませんでした(竟亦不能罪也)
 
この一件があったため、張譲は理由を探して王允を中傷し、逮捕して獄に下しました。
ちょうど大赦があったため、王允は刺史に戻されます。
しかし旬日(十日)の間にまた他の罪で逮捕されることになりました。
 
楊賜は王允に楚辱(拷問による苦辱)を受けさせたくないと思ったため、客を送ってこう伝えました「君は張譲の事があったので、一月に再徵された(二回逮捕された)。凶慝(凶悪な人)とは量り難いものだ。深く計ることを望む(幸為深計)。」
資治通鑑』胡三省注によると、「深計」は自殺を意味します。
 
諸従事で気決(果敢、気概)を好む者も共に涙を流して王允に薬を進めました。
しかし王允は厳しい口調でこう言いました「わしは人臣となったのだから、君から罪を獲たら大辟(死刑)に伏して天下に謝すべきだ。どうして薬を飲んで死を求めることができるか(豈有乳薬求死乎)!」
王允は杯を投げ捨てて起ちあがり、外に出て檻車に乗りました。
王允が至ると(廷尉に至ると。『資治通鑑』には「廷尉」がありませんが、『後漢書陳王列伝(巻六十六)』は「至廷尉」と書いています)、大将軍何進と楊賜、袁隗が共に上書して命乞いをしました。
そのおかげで死罪から刑を減らされました(得減死論)
 
後漢書陳王列伝』は「太尉袁隗、司徒楊賜」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注は「袁隗も楊賜も当時はこの官ではないので、恐らく誤りである」と解説しています。
 
[二十五] 『後漢書霊帝紀』は「この年、下邳王劉意が死に、子がいなかったため国が除かれた」と書いています。
 
劉意の諡号は愍王で、父は貞王劉成です。劉成は恵王劉衍の子、明帝の孫に当たります。
後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、中平元年(本年)、劉意は黄巾の乱に遭ったため、国を棄てて逃走しました。
(黄巾)が平定されてから復国しましたが、数カ月で死にます。在位年数は五十七年に及び、享年九十歳でした。子の哀王劉宜が継ぎましたが、数カ月で死に、子がいませんでした。献帝建安十一年206年)に正式に国が除かれます。
『孝霊帝紀』の記述は哀王劉宜が漏れています。
 
[二十六] 『後漢書霊帝紀』からです。
郡国に異草が生え、龍蛇鳥獣の形をしていました。
『孝霊帝紀』の注によると、人の形をしたものもあり、それぞれ兵弩(武器弓弩)を持っていました。
龍蛇鳥獣の形をした草には毛()等が全てついていました。
 
 
 
次回に続きます。