東漢時代302 霊帝(三十七) 王允 184年(6)
張曼成の余党が改めて趙弘を帥に立てました。その衆が再び盛んになり、十余万に拡大して宛城を拠点にします。
これに対して司空・張温が上書して言いました「昔、秦は白起を用い、燕は楽毅を用いましたが、どちらも長年を経歴してやっと敵に勝つことができました(皆曠年歴載乃能尅敵)。朱儁は潁川を討って既に效(成果)があり、師(軍)を率いて南を目指して方略が既に設けられています(引師南指方略已設)。軍に臨んで(出征して)将を換えるのは兵家が忌む(嫌う)ことです。日月を貸して成功を責(責務)とさせるべきです(時間を与えて成功させるべきです。原文「宜假日月責其成功」)。」
霊帝は呼び戻すのを止めました。
やがて朱儁が趙弘を撃って斬りました。
韓忠は退いて小城(宛城との位置関係が分かりません)を守り、懼れ慌てて投降を乞いました。
諸将が皆、投降を受け入れようと欲しましたが、朱儁はこう言いました「兵とは元々形が同じでも勢が異なることがあるものだ(戦とは、状況が同じでも趨勢が異なることがあるものだ。原文「兵固有形同而勢異者」)。昔、秦・項の際(秦と項羽の時代)は民に定主がなかったので、帰順した者を賞すことで投降するように勧めたのである(故賞附以勧来耳)。しかし今は海内が一統になり、ただ黄巾だけが造逆(造反)している。投降した者を受け入れても善を勧めることはできないが、これを討てば悪を懲らしめるに足りる(納降無以勧善,討之足以懲悪)。今もしこれを受け入れたら、更に逆意を開き、賊は利があれば進んで戦い、鈍ったら投降を乞うようになる。敵を自由にさせて寇(賊)を増長させるのは良計ではない(縦敵長寇非良計也)。」
朱儁は急攻しましたが、連戦しても勝てませんでした。
朱儁が土山に登って韓忠の陣を望み、顧みて司馬・張超に言いました「状況が分かった(吾知之矣)。賊は今、外の包囲が堅固で内営が逼迫しており(外囲周固,内営逼急)、投降を乞うても受け入れられず、出ようと欲しても出られないので、死戦しているのだ。万人でも一心になったら当たれないのに(敵対できないのに)、十万もいたらなおさらだ。包囲を撤去し、兵を合わせて城に入った方がいい(原文「不如徹囲,幷兵入城」。小城の包囲を解いて兵を宛城に入れるという意味だと思います)。韓忠は包囲が解かれるのを見たら必ず自ら(城を)出る(勢必自出)。自ら出たら意が散じる(心が一つではなくなる)。これが(敵を)破る道だ。」
朱儁はこれを機に攻撃し、大破して一万余級を斬首しました。
しかし余衆がまた孫夏を奉じて帥に立て、宛に戻って駐屯しました。
『後漢書・皇甫嵩朱儁列伝(巻七十一)』によると、大敗した韓忠等は朱儁に降りましたが、秦頡が韓忠に対して怨みを積もらせていたため、殺してしまいました。余衆は懼れて不安になり、再び孫夏を帥に立てて、宛中に還って駐屯しました。
『資治通鑑』に戻ります。
癸巳(二十二日)、宛城が陥落して孫夏が逃走します。
朱儁は西鄂精山まで追撃して再びこれを破り、一万余級を斬りました。
こうして黄巾が破散(破滅四散)します。
他の州郡でも黄巾が誅殺され、一郡で数千人に上りました。
『後漢書・皇甫嵩朱儁列伝』『資治通鑑』とも、「孫夏は逃走した(孫夏走)」としか書いていませんが、『後漢書・孝霊帝紀』は「癸巳(二十二日)、朱儁が宛城を攻略し、黄巾の別帥・孫夏を斬った」と書いています。
東漢時代 孫堅の出征
また、厩馬で郊祭に使うもの以外は全て軍用として供出しました。
しかし旬日(十日)の間にまた他の罪で逮捕されることになりました。
楊賜は王允に楚辱(拷問による苦辱)を受けさせたくないと思ったため、客を送ってこう伝えました「君は張譲の事があったので、一月に再徵された(二回逮捕された)。凶慝(凶悪な人)とは量り難いものだ。深く計ることを望む(幸為深計)。」
『資治通鑑』胡三省注によると、「深計」は自殺を意味します。
王允は杯を投げ捨てて起ちあがり、外に出て檻車に乗りました。
そのおかげで死罪から刑を減らされました(得減死論)。
賊(黄巾)が平定されてから復国しましたが、数カ月で死にます。在位年数は五十七年に及び、享年九十歳でした。子の哀王・劉宜が継ぎましたが、数カ月で死に、子がいませんでした。献帝建安十一年(206年)に正式に国が除かれます。
郡国に異草が生え、龍蛇・鳥獣の形をしていました。
龍蛇・鳥獣の形をした草には毛・羽・頭・目・足・翅(翼)等が全てついていました。
次回に続きます。