東漢時代304 霊帝(三十九) 董卓 185年(2)
夏四月庚戌(十二日)、大いに雹が降りました(大雨雹)。
『後漢書・孝霊帝紀』は「大風が吹いて雹が降った(大風雨雹)」としていますが、『後漢書・五行志三』には「雹が降り、農作物を傷つけた(雨雹傷稼)」とあり、「大風」の記述がありません。『資治通鑑』も「大風」を省いています。
五月、太尉・鄧盛を罷免し、太僕・河南の人・張延を太尉にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、張延は字を公威といい、張歆の子です。
秋七月、三輔が螟(害虫)に襲われました。
八月、司空・張温を車騎将軍に、執金吾・袁滂を副(副将)に任命し、北宮伯玉を討伐させました。
九月、特進・楊賜を司空に任命しました。
光禄大夫・許相を司空に任命しました。
『孝霊帝紀』の注によると、許相の字は公弼といい、平輿の人です。
諫議大夫・劉陶が上書しました「天下は前に張角の乱に遇い、後に辺章の寇に遭い、今は西羌の逆類(反逆者)が既に河東を攻め、更に勢いを増して上京に猪突する恐れがあります(原文「恐遂転盛豕突上京」。『資治通鑑』胡三省注によると、雒陽は河東の東南五百里に位置します)。民の多くが逃走して死から逃れようとする心を持っており、前進して生きるために戦うという計(考え)は全くありません(民有百走退死之心,而無一前闘生之計)。西寇が徐々に前進して車騎(張温)が孤危(孤立危険)に陥っており、もしも利を失ったら、敗(失敗)から救うことはできません(假令失利其敗不救)。
臣は進言を頻繁に行ったら(陛下に)厭われることになると知っていますが(臣自知言数見厭)、それでも進言を自裁(自制)しないのは、国が安んじたら臣もその慶(福)を蒙り、国が危うくなったら臣も先に亡ぶことになると思っているからです。当今において急を要す八事(当今要急八事)を謹んで再び陳述します。」
この八事のおおよその内容は、天下の大乱は全て宦官が原因であるというものでした。
そこで宦官が共に劉陶を讒言し、こう言いました「以前、張角の事が発してから、詔書が威恩(威信と恩徳)を用いると示したので、それ以来、皆が悔い改めました(各各改悔)。今は四方が安静なのに、劉陶は聖政を疾害(嫌って陥れること)し、専ら妖孽(妖悪)を語っています。州郡が上げないのに(州郡からの報告がないのに)、劉陶はどうやって知ったのでしょうか(何縁知)?劉陶と賊が情を通じている疑いがあります。」
劉陶は使者(取り調べのため霊帝が派遣した者)に「臣は伊・呂と同疇(同類)にならず、三仁を輩(同輩、同類)としたことを恨む(「伊・呂」は伊尹と呂尚で商王と周王を助けました。「三仁」は商王朝末期の微子、箕子、比干で、諫言したため禍に遭いました)。今、上は忠謇(忠誠正直)の臣を殺し、下には憔悴の民がいる。(この政権も)また久しくないだろう。後悔がどうして及ぶだろうか(亦在不久,後悔何及)」と言うと、気を閉じて死にました(原文「閉気而死」。「閉気」は心中に憤懣や怨恨を抱いてもそれを発散できないこと、または呼吸を止めることです。この「閉気而死」が「憤懣を抱いたまま死んだ」という意味か、「自ら呼吸を止めて死んだ」という意味かは分かりません)。
元司徒・陳耽も為人が忠正だったため、宦官が陳耽を怨んで誣陷(誣告)しました。
陳耽も獄中で死にました。
張温が諸郡の歩騎兵十余万を率いて美陽に駐屯しました。
辺章と韓遂も美陽に兵を進めます。
張温が辺章等と戦いましたが、勝てませんでした。
辺章と韓遂は楡中に走りました。
参軍事(「参軍事」は「参軍」ともいい、軍務の謀議に参加して主将を補佐する官です。『資治通鑑』胡三省注によると、参軍事の官はここで始めて登場します)・孫堅が周慎に言いました「賊の城中には穀(食糧)がないので、外から糧食を輸送するはずです。堅(私)は一万人を得てその運道を断つことを願います。将軍が大兵(大軍)を率いて後に続けば、賊は必ず困乏して敢えて戦おうとせず、逃走して羌中に入ります。そこで力を併せてこれを討てば涼州を平定できます。」
周慎はこの意見に従わず、軍を率いて楡中城を包囲しました。
辺章と韓遂は兵を分けて葵園峡に駐屯し、逆に周慎の運道を断ちます。
懼れた周慎は車重(輜重)を棄てて退却しました。
張温は董卓にも兵三万を率いて先零羌を討伐させました。
董卓は兵を還して扶風に駐屯しました。
『後漢書・董卓列伝(巻七十二)』によると、この時、漢の衆軍(周慎等を指すと思われます)は敗退していましたが、董卓だけが全軍無時に還って扶風に駐屯しました。朝廷は董卓を斄郷侯に封じて邑を千戸にしました。
『資治通鑑』に戻ります。
孫堅が進み出て張温の耳元でこう言いました「董卓は罪を怖れず、逆に傲慢で大語しています(原文「鴟張大語」。「鴟張」はフクロウが羽を広げる様子で、傲慢・凶暴の意味です)。召してもすぐ至らなかったことを理由に、軍法を述べてこれを斬るべきです(宜以召不時至陳軍法斬之)。」
孫堅が言いました「明公は自ら王師を率いて天下を威震させています。何を董卓に頼るのでしょう。董卓が語ることを観るに、明公を必要とせず(不假明公)、上を軽んじて礼がありません。これが一つ目の罪です。辺章と韓遂が跋扈して年を経ており、すぐに進討するべきですが、董卓はまだその時ではないと言い(卓云未可)、軍を妨害して衆を躊躇させています(進軍を滞らせています。原文「沮軍疑衆」)。これが二つ目の罪です。董卓は任を受けたのに功がなく、招きに応じても停留し、しかも傲慢自大です(応召稽留而軒昂自高)。これが三つ目の罪です。古の名将で、鉞を持って衆に臨んでから(軍権を与えられて出征してから。原文「仗鉞臨衆」)、(罪人を)断斬(斬首)せずに成功した者はいません。今、明公は董卓に対して垂意(留意すること。または意を曲げること)し、すぐ誅を加えずにいます。威刑の欠損はここにあります(あなたが威刑を損なわせています。原文「虧損威刑於是在矣」)。」
孫堅は退出しました。
東漢時代 孫堅の出征
この年、霊帝が西園に万金堂を造りました。司農の金銭や繒帛を運んで堂中を満たします。
また、霊帝は私蔵した金銭を小黄門や常侍の家に贈りました。それぞれ銭数千万に上ります。
更に河間で田宅を買って第観(邸宅・楼観)を建てました。
『資治通鑑』胡三省注は、霊帝は即位前に「河間解瀆亭侯」に封じられたと解説していますが、『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、解瀆亭は河間ではなく中山国に属しています。河間は霊帝の先祖・劉開(河間孝王・章帝の子)の封地です。
洛陽(雒陽)の民が子を生みました。頭が二つ、腕が四本ありました(両頭四臂)。
次回に続きます。